。その夢想が情熱にまで熱せられる時には、如何なるものとなるであろうか。
 私は蛇は嫌いではない。だがフーシェは嫌いだ。――それはそれとして、ここで他のことに想いは走るのである。
 吾々の眼前には今、真の大衆と称して誤りない支那民衆がある。新時代の空気に浴した比較的インテリな人々ではなく、何等かの政治的色彩に染められた人々ではなく、大地から豊饒に生れ出るといわれる一般民衆のことである。数々の戦乱の苦難や被征服の苦渋を嘗めつくし、もはやそれらのことに或る程度麻痺してしまった、そういう伝統を肌身につけてる人々なのである。或は水牛の如く黙々として田畑を耕やし、或は騾馬の如く唯々として荷を運び、或は家鴨の如く騒々しく群れてる人々なのである。
 彼等はその粗服と風雨に曝された皮膚以外、何等の表情をも持ってはいない。顔面の表情のみならず、身体全部の表情を持っていない。彼等が何を考え何を欲しているのか、窺い知る由もない。恐らくは何も考えず何も欲していないのかも知れない。当面の問題はただその日その日の生活にのみあるのであろうか。その心理風景を想像するに、そこには恐らく、一羽の小鳥も鳴かず一茎の野草も花咲かぬことであろう。
 だが、彼等が、何等かの風向によって、一団となって動き出す時、それは非常な勢いとなる。千丈の堤も支えきれない大洪水の如き勢いを呈するだろう。そこにおのずからの情熱が醗酵されるだろう。――その情熱が砂漠の情熱に終ることのないようにということが、人間としての希望であらねばならぬ。ジョゼフ・フーシェからかくも突飛に連想が飛ぶのも、彼等が無性格に終る危険が多いからに外ならない。
 連想はまた飛躍するが、日本の方々の河川の河原には、コンクリートの台柱の上に高い鉄塔をつけて、その上に高圧電気の線が架せられてるのが、幾つも見受けられる。河原に遊ぶ者は、時として、それらの電塔の上方、見上ぐるばかりの高さのところに、藁屑や草根や枝葉などが夥しく懸ってるのに、気付いて小首を傾げる。何のためにそういう塵芥をかけておくのか。登攀を防ぐためであろうか。そうではない。洪水の折、満々たる濁水に流されてきたものがそこにひっかかったのである。日が照り礫が白く乾いてる河原に立って、頭上遙かの塵芥のところまで濁水滔々たる洪水の折のことを想像すれば、思わず慄然とする。
 日本の河川でさえそうである。治水を以て治国の要諦とされた支那の大洪水のことは、余りに有名であるが、また実に想像に余りあるものがあろう。――更に、大地より無限に豊饒に生れ出ると云わるる支那大衆の或る種の洪水は、想像を絶するものがあろう。そして洪水には洪水として、おのずからの情熱が醗酵するものである。それをして砂漠の情熱たらしむるか否かは、その酵母の問題である。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング