眼がさめてるなら起きておいでよ。」
 母の声は案外やさしかった。で私は飛び起きて、着物をひっかけながら、炬燵の方へもぐりこんでいった。
 餉台の上には、蛸の足だの※[#「魚+昜」、498−下−5]だの海苔などが並んでいた。父はそれらのものには手もつけないで、ただ酒ばかり飲んでいた。それもいつものように濁酒ではなかった。私は※[#「魚+昜」、498−下−7]を貰ってしゃぶった。
「啓太郎でもいてくれると、これからのわたし達も楽なんだがね。」
 そんなことを母はしみじみと云い出していた。それから暫く話は啓太郎のことになっていった。私は何となく嬉しかった。父母がそんな風にしんみりと彼のことを話すのを、私は余り見たことがなかったのである。
 私は長兄啓太郎については、非常に清らかな記憶を持っていた。彼の死骸が砲兵工廠から運ばれてきた時、私はまだ六歳にしかなっていなかったが、彼が死んだとはどうしても思えなかった。木香《きが》のぷーんとする白木の棺の中に、真白な布にくるくる巻かれて、誰が入れてくれたものか、黄色い花の中に寝ていた。その寝顔を、私は父の腋の下から覗いた。いつも落凹んだ恐い眼付だったが
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