陀仏を唱えた。
「何をしてるんだ、止せよ。」と父はふいに声を立てた。「人が酒を飲んでるところへもってきて、抹香臭え真似をしやがって……。」
「いいじゃないかね。わたしは仏様にお礼を云ってるんだよ。」
 母は落付き払っていた。
「仏様にお礼だって……何を云ってるんだ。」
「お前さんが無事にこれまで勤めてきたのも、仏様の御蔭だよ。わたしはね、毎日、お前さんが無事で戻るようにと、仏様に願っていた。そりゃあね、お前さんの仕事は啓太郎のとは違っちゃいたが、いつどんな怪我をしないとも限らないじゃないか。それがこうして……。」
「無事にお払い箱になったってことか。ばかな。」
 そんな話を聞いてるうちに、私は呆気にとられてしまった。これまで一度も、母が仏壇を拝んでることも見たことがなかったし、父に対して母がそんなにおとなしいことも見たことがなかったのである。そしてふと気付いたのだが、母の髪が変に赤茶けてるのと父の髪が変に灰色がかってるのとに、何となくびっくりした。
 母はまた南無阿弥陀仏を初めていた。
「止しなったら……止せよ。」
 父はひどく癇癪を起してるらしかった。その拍子に、銚子を一本ひっくり返してしまった。
「それごらんな仏様の罰があたったんだ。」
「なに、仏様の罰だって……。あたるならあたってみろ。どこからでもあたってみろ。」
 私は驚いて、台所から雑巾を持って来た。が母はそれをひったくって、自分で畳を拭いた。それから銚子の酒を代えたりした。
「うむ、慾張りめ、八百円がそんなに有難えか。」
 父はまだむしゃくしゃしてるらしかった。が母はやはり落付き払っていた。
「ええ、どうせそうだろうよ。わたしはこれでもね、自分の息子を殺されて、その涙金の二百円ぽっちりの金を、お辞儀をして貰ってきやしないよ。」
「何だと、誰がお辞儀をした。さあ云ってみねえ、誰がお辞儀をした。」
 然し父はもう酔っ払って、お辞儀みたいに頭をふらふらやっていた。それをきょとんと振立てて、私をじっと眺めた。
「おや、とんちきな真面目くさった顔をしてるじゃねえか。うむそうか、お前は豪い者になるんだったな。何でもいいから豪い者になれよ、いつまでも、世の中に用が無くならねえようにな。俺のようになっちゃあ、もう駄目だぜ。駄目ってこたあ、世の中に用がなくなるってことだ。」
 父はもう舌がよく廻らないのを、一生懸命に云い続けてるらしかった。
「俺はな、十二の時から世の中に乗り出したものだぜ。十二の時から……鉄屑を拾ってな、大した仕事じゃねえさ。だが、素晴らしく大きな釜だったぜ。十石も二十石もはいろうというやつでね。その中に鉄が真赤に煮えくり返ってるんだ。そんな釜を持ってる者あ、ど豪い人だろうと、俺は子供の時分そう思ったね。そして俺はどうかと云やあ、工場の隅から隅まで鉄屑を拾って歩く役目さ。立派な職工達が夜中まで働えてた。造兵なんかよりもっときちっと整ってた。今から見りゃあ、ちっぽけな工場だが……。その工場で俺は、鉄屑を拾ってきたんだ。そして……なあに考えてみりゃあ、一生鉄屑を拾ったようなもんだ。他人のためにな……。だが、こいつが肝心だぜ。こいつ一つだ。鉄屑でも拾ってるうちゃあ、まだ世の中に用があったんだ。鉄屑も拾えなくなっちゃあ、もうおしまいだからな。だが、今時の若え者あ、豪いことを考えてるぜ。そいつが俺にはよく分らねえんだが……。何しろ、もう年が年だからね。啓太郎でもいりゃあ、俺も気が強えんだが、俺一人じゃあ、気が弱くなるのも無理はねえさ。一番大事なこたあ、年が若くって、……豪い者になることだ。」
 父はもう私に話しかけてるのでもなかった。杯の酒を見い見い、時々それをぐっとあおっては、ぐずぐず饒舌り続けていた。母はそんなことには頓着なく、小皿の物をつまんだり、自分でもお酒を飲んだりしていた。
 おかしな状態だった。がなおおかしなことには、父はいつのまにか仏壇の方へにじり寄って、新らしい位牌と睨めっこをしていた。
「いつまでつけっ放しにしてるんだ。火事でも起したらどうする。」
 父はさも忌々しそうにそう云って、よろよろ立ち上りながら、燃えつきようとしてる蝋燭の火を吹き消したが、その後にまた新らしい蝋燭をともした。
「明るくなったろう、ははは。」
 そこに屈みこんで、銚子と杯とを両手に取って、仏壇と差向いに酒を飲み初めた。そしていつしか、南無阿弥陀仏を口の中で唱えだして、身体をふらふら揺っていたが、そのまま横のめりに寝入ってしまった。
「仕様がないね。」
 母は独語ちながら、父の上に蒲団をかけてやった。

 父のところへは、時々仲間の職工達が一人二人ずつやって来て、十分か二十分くらいしては帰っていった。そういう人達に父は余り取り合わないらしかった。母が応対してることさえあった。何の話
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