だか私には分らなかったが、後になって考えてみると、一部の職工達の間に何等かの計画がめぐらされてたものらしい。
 父は毎日、朝から酒を飲んでいた。酒は台所の縁の下にしまってある濁酒だった。時には一杯つまった一升壌が三四本も並んでることがあった。その上奥の方には、大きな甕が据えてあった。
「あの甕のことを人に云っちゃいけないよ。人に聞かれたら、酒はよそから買ってくるんだと云うんだよ。いいかい、忘れると承知しないよ。」
 母は私にそう云って聞かしていた。そしてよく知ってる私にまで甕を見せまいとしていた。その理由が私にはどうしても分らなかった。なぜ自分で酒を拵えてはいけないんだろう。酒を拵えるとなぜ罰金を取られたり監獄に入れられたりするんだろう……。
 私は或る時そのことを寺田さんに尋ねてみた。すると寺田さんはこう答えた。
「そうだ、お前の云うことが本当だ。だが、そんなことを人に云っちゃいけない。……今に分るよ。」
 私はばかばかしい気がした。人に聞かれたらいつでも云ってやるつもりでいた。――幸なことには、一度も人に聞かれたことがなかった。
 父は朝から酒を飲むばかりでなく、酒の肴に目差や※[#「魚+昜」、501−上−19]などをしゃぶっていた。それまではいつも味噌汁と漬物ばかりだったのである。そして晩の惣菜もずっとよくなっていた。職に離れた父だけがそうなので、私には不思議に思えた。姉までが時々、カフェーから何やかや父に持って来ることがあった。
 然し父は皆から食物の上で大事にされながら、他の事では殆んど相手にされなくなっていった。正月の買物のことだの、炭を買入れることだの、竈の下を瓦斯にするか薪にするかということだの、姉がカフェーを住み換えるかどうかということだの、秋から持ちこされていた家賃値上の問題だの、凡てが母と姉との間で相談され解決されてるようだった。
 或る時、植物園の前のところに、駄菓子屋が一軒売物に出ていた。母と姉とは二日も三日もそれについて話をし合って、わざわざ店を見にまでいった。
「そりゃあいいぜ。」と父は云った。「そうなりゃあ、俺が車を引っ張って売りに歩いてもいい。」
「まだきめてやしないんだよ。」
 母はそう答えたきりで、姉の方へ話を向けてしまった。
「だが、俺もこうぶらぶらしていたんじゃあやりきれねえからな。」
 そして父は、時々出歩いては職を探し廻っていた。そのことについてだけは、母も真面目に相談にのって、あれこれと就職口を頼みこむ方便を考えてやった。然しいつまでも父の職は見付からなかった。初め砲兵工廠を止すとすぐに王子分廠の方へ出る手筈だったらしいが、それももう駄目ときまっていた。
「お前さんがどじだからよ。」と母は腹を立てたような蔑んだような口の利き方をした。「だけど、長年苦労をしてきたんだから、暫く遊んでおいでよ。わたし達はお前さんを当にはしていないんだからね。」
「そりゃあ、どうせ俺はもう、世の中に用のねえ人間なんだが……。」
 世の中に用のないということは、殆んど父の口癖となっていた。そしてそれはまた、父が口を噤む最後の捨台辞でもあった。その極り文句を吐き出してしまうと、いつもむっつり黙り込んでしまった。そしてひどく陰欝な顔付になった。それが、髯を剃ってる時には痛々しく見え、髯が伸びてる時には兇悪に見えた。
 髯が剃られてるのと伸びてるのとで、人の顔の感じが甚しく異るのを、私は最初に父に於て見てきた。髯のない父の顔は如何にも善良そうで、世の中の苦労を嘗めつくしてきて弱りはててる、云わば温良な落伍者の感じだった。けれど、不精髯がもじゃもじゃ生えてる父の顔は、何だか世の中に始終不平を懐いていて、何かのきっかけがあれば、どんな悪事をも平気でやってのけそうな感じだった。
 母もそれに気付いてると見えて、父が就職口を探しに出歩く時なんか、やかましく云って髯を剃らせた。が平素、父は髯を剃ることをひどく億劫がっていた。
 或る時、父は一包みの古釘をどこからか持って帰った。そして火鉢の横に、厚い鉄板と金槌とを持出して、曲りくねった古釘を丁寧に伸ばし初めた。
「そんなことをして、何にするんだい。」
 母は頭ごなしにやっつけていたが、父はただにやにや笑ってばかりいた。
 その翌々日の夕方、山本屋の小僧に住み込んでる中の兄の啓次が、自転車で慌しくやって来た。真赤になって怒っていた。父が店にやって来て、古釘を貰っていった、自分は恥かしくて顔が上げられなかった、あんなことをして貰っては、朋輩に顔向も出来ない……とそう云うのだった。そして云うだけのことをぽんぽん云って、そのままぷいと帰っていった。
 母はびっくりしたような顔付をしていた。兄が帰ってしまうと、暫くたってから、じりじり父の方へつめ寄った。
「お前さんにも呆れて物が
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