云えやしない。何てことをするんだい。お前さんがそんな了見だから、お花だって啓次だって、家に寄りつきゃしないんだ。自分の子供の顔に泥を塗るようなことを、よくものめのめ云って行けたものだね。そんなことをするよりは、立ん坊でもした方が、どれほど立派だか知れやしない。お前さんは乞食根性だ。」
 それでも、何と云われても、父は弁解をしなかった。
「ほう、そんなにいけねえことかなあ。」
 そして陰欝に顔を渋めてるきりだった。
 それでも、十日ばかりたつと、父は晴れやかな顔をして、また古釘の包みを持って帰って来た。
「さすがは大店《おおだな》の旦那だ、お前達とは了見が違うぜ。俺が行って話をすると、そいつあ啓次の方がいけねえって、さんざん小言をくってた。そして、見ねえ、この通り向うから頼んで、古釘を持たしてくれた。どんな物だって、世の中に廃り物はねえんだ。その心得が肝心なんだ。山本屋じゃあ、これから俺の手におえねえほど古釘を取っておくってよ。荷物の出入がはげしいから、古釘はいくらも出る、新らしい釘はいくらも要る、そこで俺の仕事が役立つってわけだ。金なんか貰わねえ。俺はただ働えてやるんだ。」
 父はすっかり喜んでいた。金槌の音が煩いと母から云われると、寒い中を裏口に出てカンカンやっていた。
 そういう父の生活は、ひどく退屈なものだったに違いない。そこから不幸が起ってきたのだ。――然し私は余り先まで筆を運びすぎた。元に戻って事件を述べてゆこう。

 父が砲兵工廠を罷めてから間もなく、私達を最も驚かしたことは、寺田さんの失踪だった。
 寺田さんは父と同じ砲兵工廠の職工で、レンズ磨きの方に働いていた。四十年配の、背の高い痩せた独身者で、いつも蒼白い顔をしていた。※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]にしょんぼり短い髯を生やしてるのと、右の手が左の手より長いように思われる恰好とで、特殊な印象を与えるのだった。
 彼は一年余り前、砲兵工廠へはいると同時に、隣家の離室へ越してきた。その離室が、隣家というよりも寧ろ私の家と隣家との界にあって、大きな窓が私の家のすぐ裏口に面していたので、間もなく非常に懇意になった。離室から一寸木戸を押し開けると、私の家の裏口に出られた。彼は度々てって来て、夜遅くまで話しこんでゆくことがあった。と云っても至極無口の性質で、自分の経歴などは少しも話したがらなかった。他人の経歴も余り聞きたがらなかった。そして多くは私を相手に、面白い歴史の話や地理の話をして聞かした。私はまだ学校で歴史も地理も教わっていなかったので、彼を学校の先生よりも豪いと思った。そして殊に、彼が日本中のどこでもよく知ってるのに喫驚した。彼はまた、星のことをも話して聞かした。それから習字も直してくれた。
「わたしは字は下手なんだが、お前よりは上手なつもりだよ。何事でも、自分より少しでも上手な人には教わっとくと、いつか為めになるものだ。どれ、わたしが直してやろう。」
 学校の清書を見せると彼はそう云って、二重まるのついてる字でも何でも構わずに、どしどし直していった。――彼の字は何だかひどくまるっこい感じのするものだったことを、私は未だに覚えている。
 父が砲兵工廠を止す前後、彼はひどく忙しそうで、毎晩出歩いていたらしい。私は彼の姿がちっとも見えないので、よく裏口からその室の方を覗いて見た。けれど窓に光のさしてることは一度もなかった。
 彼が職工の運動に関係してることは、父の話でほぼ分った。ただそれがどんなことだかは、当時の私には全く分らなかった。
 ところが、大晦日の前日の夜、彼は久しぶりで私の家にやって来た。私は嬉しかった。職工の運動云々のことにも拘らず、父母も喜んで彼を迎えた。そして彼は父と酒を飲み初めた。
 その晩彼がどんなことを云ったか、私は殆んど覚えていない。思い出すことといってはただ、酒を飲むに随って、彼の額が益々蒼白く澄んでゆくような感じだったのと、帰りしなに、母へ眼病の妙薬とかいう薬草を置いていったのと、虫眼鏡で私と暫く遊んでくれたのだけである。――薬草というのは、四五寸ばかりの小さな乾草で、その汁を水にしみ出さして眼につけると、どんな眼病にも利くというのだった。が、母は其後一度もそれを使わなかった。薬草はどこかの隅に永久に置き忘られてしまったらしい。
 彼は二三時間私の家で過ごして、いつもの通り裏口から静かに帰っていった。然し彼はその晩、私が殆んど何にも覚えていないように、特別に変ったことは何一つ為しも云いもしなかったに違いない。もし、何か特別なことがあったら、私が見落す筈はなかった。なぜなら、私と彼と虫眼鏡でいろんな物を眺めながら、凡そ印刷物のうちでも、紙幣が一番よく印刷してあるというようなことを、彼から聞かされてるうちに、ふと、これきり彼はど
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