るんだい。勉強もしないで……そんなもの、こっちへよこしておしまい。」
 私は虫眼鏡を取上げられはすまいかと思って、急いで立ち上った。そして次の四畳半に蒲団を敷いて、妹と一緒に寝た。妹はすぐに眠ってしまったが、私はなかなか眠られなかった。
 九時を打って間もなく、父が帰ってきた。母は帳面やなんかを元の通りにしまって、抽出に鍵をかった。父は酔ってるようだった。足音が非常に大きかった。
「どうだったんだい。」と母は尋ねた。
「どうもこうも……ばかばかしい話さ。俺達のような、期限がきて解雇された者あ、ほんの僅かきり集ってやしねえ。臨時解雇の者ばかりなんだ。ところが彼奴等あ、まだ金が下ってねえって始末だろう。そう強えことばかりも云えねえわけさ、ぐずってばかりいてつまらねえから、俺あ先に帰ってきた。」
「だからさ、ごらんな、わたしが云った通りだろう。初めから出かけていくのが間違ってるよ。でもまあ、巻き込まれなくてよかったよ。」
「うむ……。向うでもうまくやったものだ。おしつまって金を渡す、そうすりゃあすぐ正月だ。何だ彼だ云ったって、うまくいくわけのものじゃあねえ。……だが、寺田さんも黒幕の一人だから、何とかなるかも知れねえが……。」
「寺田さんもそうかい。」
「うむ。」
 私はぼんやり聞いていたが、その寺田さんという言葉に、はっきり眼がさめてしまった。然し父母の話は、私の頭ではよく分らない事柄に及んでいったし、声も低くなっていった。そのうちに、父はも少し酒を飲みたいと云い出した。
 不思議なことには、その晩母は少しも逆らわなかった。平素なら、夜遅くなって父が酒を飲み出したりすると、母は頭から小言を浴せて、飲んだくれだの碌でなしだのと叱りつけるんだが、その晩に限って何とも云わないで、台所から一升壜まで持ち出してきた。
「酒は沢山あるから、いいだけおあがりよ。わたしも一杯やってみよう。」
 焼※[#「魚+昜」、498−上−21]の匂いが[#「匂いが」は底本では「匂いか」]してきたので、私は寝返りをしたり、欠伸をしてみたりした[#「してみたりした」は底本では「してみたりた」]。
「まだ起きてるのかい。」と母がこちらの室を覗き込んできた。[#「覗き込んできた。」は底本では「覗き込んできた。」」]
「うむー……。」と私は生返辞をした。「何時だろう。」
「なにを生意気なこと云ってるんだい。眼がさめてるなら起きておいでよ。」
 母の声は案外やさしかった。で私は飛び起きて、着物をひっかけながら、炬燵の方へもぐりこんでいった。
 餉台の上には、蛸の足だの※[#「魚+昜」、498−下−5]だの海苔などが並んでいた。父はそれらのものには手もつけないで、ただ酒ばかり飲んでいた。それもいつものように濁酒ではなかった。私は※[#「魚+昜」、498−下−7]を貰ってしゃぶった。
「啓太郎でもいてくれると、これからのわたし達も楽なんだがね。」
 そんなことを母はしみじみと云い出していた。それから暫く話は啓太郎のことになっていった。私は何となく嬉しかった。父母がそんな風にしんみりと彼のことを話すのを、私は余り見たことがなかったのである。
 私は長兄啓太郎については、非常に清らかな記憶を持っていた。彼の死骸が砲兵工廠から運ばれてきた時、私はまだ六歳にしかなっていなかったが、彼が死んだとはどうしても思えなかった。木香《きが》のぷーんとする白木の棺の中に、真白な布にくるくる巻かれて、誰が入れてくれたものか、黄色い花の中に寝ていた。その寝顔を、私は父の腋の下から覗いた。いつも落凹んだ恐い眼付だったが、その時は、金魚の出目を思わせるように、閉じた眼瞼が円くふくらんでいた。口が半ば開いていた。小鼻がぴしゃんこになっていた。その全体が、どこか道化た異常なものに見えた。で私はその瞬間、兄はえらい者になったような気がした。
 その感じが、後々まで私の頭から去らなかった。
「機械が悪かったんで、お前の兄さんが悪かったんじゃない。それを役員達は、お前の兄さんの方を悪いことにして、たった二百円で済ましてしまったのだ。」
 寺田さんはそういう風に私に話して聞かしたことがある。兄が巻き込まれた調革《しらべがわ》には、前から少し損所があって、そこに兄の上衣の裾が捉えられたのを、役員達はどうしても是認しないで、兄が巻き込まれたために損所が出来たのだと主張したそうである。
 然し幼い私には、そんなことはどうでもいい問題だった。ただ兄の死体の印象だけが大事だった。そして私の頭の中には、兄が何だか異常なものに……神にでもなったような幻想が次第にはっきり出来上っていったのだった。
 暫くすると母は何と思ってか、押入の隅っこにある小さな仏壇に、蝋燭をともしたり線香を上げたりした。しまいには声にまで出して、南無阿弥
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