んでる母の声がしたので、私は急いで帰っていった。凡てが何だか夢のようだった。
 母は控え目な小言を云った。
「やたらに遊びにいっちゃいけないよ。行くなら断っておいで。」
 然し私は平気だった。平気よりも寧ろ心が浮々していた。お清の側にいる時は気がつかなかったが、姉の道具にも嗅いだことのない甘い涼しい香が、いつまでも鼻に残っていた。
 そして私はお清に親しんでいった。
 その上私には他の目論見もあった。知らず識らずいつのまにか考えついたことだった。
 私達兄弟はちりぢりになっていた。一番上の兄の啓太郎は死んでいた。二番目の兄の啓次は山本屋に住み込んでいた。一番上の姉のお花は洲崎の女郎になっていた。二番目の姉のお新はカフェーに通っていた。三番目の姉は早く死んだ。家に始終一緒にいるのは私と妹のお三代だけだった。ところが、お花も啓次も殆んど家に寄りつかなかった。だけならまだいいけれど洲崎はともかくとして、山本屋へもカフェーへも私は行くことが出来なかった。父母でさえ逢いに行けなかったので、私は猶更厳重に禁ぜられていた。
 そのことが私には全く腑に落ちなかった。子供心にも不正とさえ思われた。親兄弟が逢いに行くのを禁ずるなどと、そんな道理があるわけはなかった。――今でも私は、啓次やお新にこの点で怨みを含んでいる。世の中に対して怨みを含んでいる。
 そこで私は子供心の反抗心から、不意にお新のカフェーへ押しかけてやろうと思ったのである。山本屋へ行ったってつまらないが、カフェーは華かな別世界のような気がした。それも一二度連れてって貰ったことのある、硝子に紙のはってあるバーや外部から見通しの呉服屋の食堂と違って、お新の出てる神田のバーは、二階がレストーランになってるごくハイカラな大きなものだった。私は一度、その前をひそかにうろついて、どうしても中にはいれなかったことがあった。
 お清がそこへ出てることは何よりの幸だった。私は彼女に連れていって貰おうときめた。
 で或る時私はお清へそのことを頼んでみた。
 お清は不思議そうに私の顔を見た。
「姉さんも行ってるじゃないの。どうして姉さんに連れてって貰わないの。」
 私は説明するのに顔が真赤になった。詳しくはなかなか云えなかったし簡単には猶更云えなかった。もし相手が寺田さんだったら、胸の欝憤や疑問をそっくりさらけ出したかも知れないが、お清へは何
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