だかそれが出来なかった。で苛ら苛らしながら、いくら頼んでも姉は連れて行ってくれないとだけ答えた。
「そう。でも……。」
彼女はまだ不思議そうに私の顔を見守っていた。私は無理に頼んだ。
「後で叱られやしないの。」
「大丈夫だい。叱られたって平気だよ。僕は意趣返をしてやるんだ。」
「なにを生意気云ってるの。」
だがその時、彼女は眼をちらっと光らした。とそれがすぐにくるくると動いた。
「いいわ。連れてってあげよう。……だけど……。」と彼女は暫く考え込んだ。「こうするといいわ。あたしが連れて行くと怨まれるかも知れないから、時間をきめていらっしゃい。ね、いいでしょう。一人で来られるでしょう。その時間にあたしが待っててあげるわ。」
一度決心すると、彼女はなぜかひどく面白がっていた。そして、翌々日が階下の番だから、その七時に待ってると云い出した。
「昼間はいないかも知れないから、晩の方がいいわよ。でも家から出られて……。そう、じゃあ屹度よ。間違えると承知しないわよ。あの……神保町の四つ角に交番があるでしょう。知ってて……。そう。あの交番の時計がきっかり七時になったら、一二一二って歩いてくるのよ。あたしあの時計に自分のを合して、入口で待っててあげるわ。」
私はその通りにすると誓った。
「ああそれから、あんたお金があって。」
「ないよ。」と私は小声で答えた。
「じゃあ、これを持っていらっしゃい。あすこじゃ都合が悪いから。」
彼女は小さな蟇口から五十銭銀貨を二つ出してくれた。私は驚いた。一円そこいらではとても行けないと思っていたのである。
「これでいいの。」
「ええ。」
「これくらいなら持ってるよ。」
「じゃあそれも一緒に持ってくるといいわ。……よくって。交番の時計がきっかり七時になったら、一二一二って歩き出すのよ。」
私はお清と約束した通り決行した。全くそれは決行と云ってもいい程度のものだった。平素の憤懣を晴らすというような、また空漠とした愛慾に惹かされるというような、また何かしら未知の世界に憧れるというような、いろんな気持が一種の熱となって、私は夢中に燃え上っていたのである。
二日の間に私はあるだけの智恵をしぼって考えた上で、父母の前はどうにかごまかすことが出来た。そして他処行《よそゆき》の着物を――それも久留米絣のものだったが――着込んで、古いマントにくるまって、
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