がら立去っていった。
 私は家に飛んで帰った。
 暫く考えた上で、私は父に尋ねてみた。
「お父ちゃんは、寺田さんがどこへ行ったか、本当に知らないのかい。」
「知らねえよ。何だい。」
 で私は、途中で逢った男のことを話した。
 父はひどく淋しそうな顔付をして、考えこんでしまった。
「知らないと云うのが一番だよ。」と母は云った。「実際何にも知らないんだからね。」
 父も母も五十銭玉を私から取上げようとはしなかった。不思議にその時は、金のことなんかどうでもいいというような調子だった。私はすっかり安心した。五十銭玉を大事にしまいこみながら、もっとあんな男が出て来ないかなあなどと考えた。
 これは後年寺田さんから直接聞いた話だが、寺田さんは砲兵工廠にはいる前、九州の或る硝子工場で可なり過激な労働運動を起しかけたことがあったそうである。そのことが警察の方へ知れたので、こんどの事件もあって、先に逃げてしまったのだとか。然し他にもまだ何かあったらしい。
 私達はそんなことを少しも知らなかった。殊に私はまだ小さな子供だった。
 幸なことには、警察の方ではもうそれ以上私達に目をつけないで、ただそれとなく網を張ってるくらいらしかった。然しそのことが、変な風にこんがらかっていった。
 一月の末から、寺田さんがいた隣家の離室には、姉のお新と同じカフェーに出てる若い女が、姉の紹介でだろうが越してきた。
 肉付のいい中柄な女で、顔立も姉なんかよりずっと整っていた。そして、額から眼から口元の様子が、真面目な時には一寸西洋人風に見え、笑う時にはあどけなく見えた。カフェーで混血児《あいのこ》と綽名されてるそうだった。
 私は初め彼女に余り馴染めなかった。その上、彼女は姉と一緒に、午前中に出かけて夜十二時過ぎでなければ帰って来なかったし、私は朝早くから学校へ出て行くので、顔を合せることも少なかった。
 その女が越してきてから、暫くたつうちに、父は俄に戸締りを厳重にしだした。隣家との間の木戸に輪掛金をつけたり、裏口の古戸に新らしい板片を打付けたり、表も早くから閉めてしまった。
「大丈夫だったら。……まさかそんなことじゃあるまいよ。」
 そう母が云ってるのを私は聞いた。父は首を振っていた。
「そうじゃないかも知れねえ。だが、俺は家の中をじろじろ見られるのが嫌えなんだ。見られたっていけねえことがあるわけじゃね
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