笑う声が聞えた。そしてすぐに、固い感じのする手で肩をしっかと捉えられた。私は冷りとした。
「あははは。」と寺田さんはまだ笑っていた。「お前は面白いことを云うね……。なるほど、星は動く……わたし達についてくる……。」
もし他に通行人がなかったら、寺田さんは私の両肩を抱きしめたかも知れない。
私は寺田さんを怒らしたように思っていたので、その如何にも愉快でたまらなそうな晴々とした顔を見て、きょとんとしてしまった。寺田さんは私の肩になお右手を置いたまま、左の短い感じの手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のしょぼ髯をしごきながら、眼をくるくるさしていた。
「星がついてくるか……うむ……。」
その言葉が何でそれほど寺田さんを感心さしたのか、私には分らなかった。――今でもまだよく分らない。
ただ、実に綺麗な星空だった。
大晦日の晩寺田さんの逃亡が分ったので、それからすぐに引続いた正月は、私達にとっていつもほど晴れやかなものではなかった。その上父までが職を離れたばかりのところだった。
「俺はもう世の中に用のねえ身体だから、この正月は家にすっこんで暮そう。」
「何を云ってるんだい、縁起でもない。……松が過ぎたら、元気を出して仕事でも探しに出歩いてくるがいいよ。」
父と母とがそんな風な応対をしてるのを見ると、私は頼り無いような気持になった。それでも、食べ物の方はいつもより御馳走があるようだった。
そのうちに私達は、或る形態《えたい》の知れない圧迫を外部から感ずるようになった。
隣家へ警察の者がやって来て寺田さんの書物を押収していったのは、十日過ぎのことだった。それから間もなく、私の家へも刑事がやって来て、寺田さんのことを――私達と懇意になった初めの頃からのことや寺田さんの平素のことなどをこまかく聞き訊した上に、もし寺田さんが姿を見せたらすぐに届出るようにと云い置いていったそうである。
「お前は何を誰から聞かれようと、知らない知らないと、それで頑張り通すんだぜ。」と父は私に云った。
「そうだ、うっかり何か饒舌っちゃいけないよ。」と母も云った。
それから母は、台所の縁の下の酒甕のことをしきりに気にしだした。そんなことじゃないと父が云っても、母は始終その方へ気を取られるらしく、姉とくどくど相談してることもあった。それでも酒甕はやはり元のままで、沸々と新らしい濁酒
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