とした……云わば社会の不正であるように思われた。それに私は、寺田さんが置いていったという書物がほしくてたまらなかったのだが、それをみな警察に持って行かれたと聞いた時、憤慨の気持は一層高まった。私は不安の余り虫眼鏡を戸棚の隅に隠しながら、寺田さんの蒼白い顔を思い慕った。
寺田さんは幼い私の性情に最も感化を及ぼした人の一人だった。思い出はいくらもある。そしてこの「回想記」の主題と密接な関係があるのは、後年横浜で出逢ってから以後のことである。その時彼は、共産主義とトルストイ流の労働主義とをこね合した思想の把持者だった。がそれらのことは後に述べるとして、茲にはただ一つ、私が自分でも知らずに彼を喜ばした※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話をつけ加えておこう。
同じ年の秋の末だった。或る爽かな晩、私は寺田さんと二人で外を歩いていた。どうして二人で出歩いたかは今覚えていない。
両側の軒並に切り取られた長い空に、星が実に綺麗に輝いていた。薄暗い裏通りだったので、その星空が河を逆さに覗き込むようで殊に美しかった。
寺田さんは空を仰ぎながら、立ち止ったり歩き出したりして、私に星の名を教えていた。天の川を中心にあちらこちらへ飛んでいくので、私にはどれがそれだかよく分らなかった。そんな星の名前なんかより、それを指し示してる寺田さんの右手の、不恰好に長いような感じのする方へ、私の注意は向きがちだった。それは変に悪魔的な手だった。今にもぬーっと伸び出して天まで届きそうに思えた。
「昔は、ああいう星が動いていて、東から西へぐるぐる廻ってるものだと思われていたんだよ。ところがだんだん調べてみると、動いてるのはこのわたし達の地球で、星の方はじっとしてることが分ってきた。何万年も何億年も、あの限りなく広い空の真中に、いつまでもじっと一つ処に浮いているんだよ。或は動いてるのかも知れないが、まだそこまではよく分らないから、今のところ動かないものとしてあるんだ。」
星を指してる寺田さんの手と、永久に大空の一つところに浮いてるという星とに、私はすっかり気圧されてしまって、むりに反抗してみたくなった。
「だって……だって……星は動くよ。」と私は呟いた。「僕が歩き出すと、星がついて来るんだ。」
そして私はとっとっと歩いてやった。一寸間があった。と突然あはははと高く
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