見せた。
「わたしの方もこの通りですよ。」
寺田さんの五十円の借金証書だった。
父は二人の女の話を聞きながら、堪え難いような顔付をしていた。眉根に深い縦の皺を刻んで、顔の皮膚をくしゃくしゃにして、畳の上を見つめていた。その時くらい私は父に同情したことはない。全く穴でもあればはいりたいような様子だった。ところが、ふいに調子が一変した。
「やかましい、いいじゃねえか。出来てしまったこたあ仕方がねえ。」
女二人は突然の叫び声に飛び上るような身振りをした。
「寺田さんはそんなことをする男じゃねえ。」
母は坐り直した。
「おや、そんなことをする男じゃないんだって……それじゃあ、これはどうしたんだよ、どうしたっていうんだよ。」
そして証文と葉書とを父の前へつきつけていた。
「いつまでもそのままにしとく男じゃねえってことさ。」
「へえー、時さえ来りゃあ、二倍にも三倍にもして返してくれるというんだろう。ばかばかしい。」
父と母との見幕に驚いて、隣家のお上さんはそこそこにして帰っていった。――だが、全く厄介な目にあったのは彼女である。彼女の方では訴えも何もしなかったのに、後で警察の方からわざわざやって来て、寺田さんの書物はそっくり押収してゆき、布団は当分保管を命じていったのである。
寺田さんの逃亡は、私達に大きな打撃を与えた。
父はひどく落胆しきって、益々一人で憂欝そうに考え込むようになった。父が寺田さんに何を期待していたかは私には分らないが、今になっての私の想像を許さるるならば、寺田さんがもし労働運動に成功していたら、父は容易く王子分廠に就職出来たかも知れないように思われる。或はさほど深い関係がなかったにもせよ、寺田さんが逃亡したということは父の気持の上では杖を失ったようなものだったろう。
「寺田さんは屹度いつかこっそりやって来る。」
父は後々までそう云い続けていたし、そう信じきってるらしかった。
母は寺田さんを許していいか憎んでいいか、自分でも分らないような風だった。何かにつけては五十円の証文のことをもち出して、口汚く罵りながらも、すぐその後で、いい人だったとか恐い人だったとか云って、溜息をついていた。
私は何だか、誰に向ってともなく無性に腹が立った。寺田さんが母や隣りのお上さんに金銭上の迷惑をかけていったことが、寺田さんの方の不正ではなくて、或る大きな漠然
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