なく涙をほろりとこぼして、それから暫くは顔が挙げられませんでした。
 梶さんは出発に際して、生命の危険を覚悟していたようでした。菊千代にも当分の生活に困らないだけのことをしておいてくれました。だが、南方行きの事情については、梶さんはあまり語らず、菊千代もあまり尋ねませんでした。二人の仲は、互に愛し合ったというのではなく、旦那と芸者との最も普通な水準だったでありましょうか。
 それでも、菊千代の心に深く残ってることがありました。梶さんの出発間際に、公開の舞踊の会がありまして、菊千代は『高尾ざんげ』を出しました。戦争は次第に苛烈さを増して、踊りの会などもそれが最後かと思われました。梶さんは忙しい時間をさいて、永井さんと一緒に来てくれました。
 菊千代は心をこめて高尾の霊を踊りました。塚の出から廓の物語など、自分でも気持ちよいほどみごとに運びましたが、どうしたことか、終りになってつまずきました。照明が変って夜明けの色が漂うあたりで、彼女の心は唄の文句から離れてゆき、稲妻の光りが交叉し、世の人の煩悩につきまとわれるあたりになると、もう彼女は高尾の霊になりきれず、なにか夢を追い求める一抹の気が、
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