菊ちゃん、君はまだあいてるんだろう。空家払底の当節だから、用心しなけりゃいかんよ。うっかり人をもぐりこませたら、もう決して立ち退かないからな。」
 それが、大勢の人中でのことでした。菊千代は捨鉢につっかかってゆきました。
「ええどうせあたしは空家ですよ。月ぎめの人でも、年ぎめの人でも、先口に貸してあげるわ。」
 なにか口惜しさがこみあげてきて、たて続けに酒を飲んでやりました。――菊ちゃんなどと、昔通りの呼び方をして貰いたくなかったのです。空家などという露骨なたとえも、浮気封じの底意かと善意に解釈しても、永井さんの口から出るべきものではなかったでしょう。
 梶秀吉がなにか特別の用務を帯びて南方へ渡る途中、台湾沖で乗船を沈められて亡くなったことを、正式に菊千代のもとへ知らせてくれたのも、永井さんでしたし、未亡人恒子さんの旧怨をすてた意向を受けて、告別式に出られるようそれとなく計らってくれたというのも、永井さんでした。菊千代は梅葉姐さんと一緒に、人中に隠れるようにして霊前に焼香しましたが、そのすぐあと、立ち並んでる遺族のなかの未亡人とおぼしいあたりへ、足をとめて頭を下げた時、自分でも思いがけ
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