ことについて、話の合間にそれとなく、根ほり葉ほり探りを入れました。そうなってくると、菊千代がどうしても胸に納めかねてる空家一件のことも、他を封じて自分に靡かせようとする下心が無意識にせよあったのが、自然と浮き出してきました。
 だが、永井さんの調子は、いつも、本気とも冗談ともつかず、掴みどころがないのを、更に高笑いで覆い隠されるのでした。その上、未亡人梶恒子さんの噂も、時折持ち出されました。
 或る寒い夜、永井さんはへんに真面目に言い出しました。――来年は梶さんの五周忌で、盛大な法事が行われる予定になっていること、その席へは未亡人の希望で菊千代にも出て貰いたいこと、どうやら未亡人は菊千代が好きになってるらしいこと……。
 菊千代は細長い眼を見張りました。
「だって、あたし、まだ奥さんにはお目にかかったことがありませんのよ。」
「ところが、奥さんの方ではあるのさ。葬式の時に一度……それから、梶君が南方へ出発する前、踊りの会で、君が何か……踊ったことがある。あの時に奥さんも見に来ていたよ。それから、まだある筈だ。」
「あら、あの踊りの会に……。」
「そうだ、気がつかなかったろう。」
 そして永井さんは声高く笑いました。
 その笑い声に、菊千代はぞっと総毛立つ思いをしました。――あの舞踊の会に奥さんが来ていた筈はありませんでした。菊千代は公然と座席の方へ梶さんに挨拶に行き、暫く話しこんだことなど、いまだに覚えていました。梶さんとしても、あすこへ奥さんを連れてくるような人ではありませんでしたし、奥さんだってまさか、梶さんに内緒でやって来るような人ではなかったでしょう。それを……そんな分りきった嘘を、なぜ永井さんは言うのでしょうか。
 菊千代は永井さんの顔を見つめました。
 永井さんは杯を取りあげて微笑していました。
「まあ万事、僕に任せておけよ。梶未亡人とも対等に交際出来るようにしてあげよう。実は、未亡人の方では、君と梶君とのことをはっきり知ってはいないんだよ。」
 菊千代は頬の筋肉が震えてくるのを押えつけて、無理に微笑みました。
「お願いがあるんですけど……。」
 永井さんは顔をつき出しました。
「清香さんをかけて下さらない。お義理を返したいのよ。」
 きょとんとしてる永井さんをそのまま、返事も待たないで、菊千代は自分で立っていきました。お上さんに清香のことを頼んで、俥も待たないで外へ出ました。もうこれから永井さんのお座敷なんかへ、出るものか出るものかと、口の中で呟きながら、杉茂登へと急ぎました。街路にはほんのりと白く雪がありました。それを蹴散らして行くのが痛快に思われました。
 杉茂登で、檜山さん一人と聞くと、菊千代は階段を駆け上ってゆきました。
 息を切らして、挨拶もせず、卓上に両前腕をついて、眼をつぶりました。
 僅かな埋め火の炬燵に足を差し入れたまま檜山は黙っていました。菊千代が細そり眼を開くと、檜山は眉根に皺を寄せて、思いを遠くへやってるようでした。菊千代は大きく眼を開いて、吐息をつきました。
「遅くなって、御免なさい。でも、ほんとに、雪を蹴立てて駆けつけてきたのよ。」
「まだ降ってるの。」
「降った方がいいわね。雪見酒、今夜はあたしにも飲まして頂戴。」
 日本酒とウイスキーとのちゃんぽんには、体が温まるのか冷えるのか分りませんでした。銚子を持って来た女中に、菊千代はウイスキーの瓶をさげさせようとしました。檜山はそれを遮りました。
「身体には毒でも、精神には薬さ……飲んでしまうことがね。」
 終戦間際に、も少しのところで、檜山は北京へ行くことになっていました。東京在住の或る有力な回教徒に連絡がついており、それと同行して北京へ行き、蒙古から北支へかけての回数徒等に、特殊な働きかけをなす予定だったのです。上層部の講和運動、本土決戦の一般宣言など、後に明らかになった支離滅裂な動きのなかの小さな一つに、その回教徒工作がありました。回教徒の解放独立という純真な主旨だけ抽出して、それに尽力しようとした檜山は、終戦後次第に暴露されてゆく当時の日本の現実にすっかり圧倒されてしまいました。その上、北京行きの手当の金の一部を、既に彼は受け取っていまして、それは返還の仕方がない事情にありました。なお、多量のウイスキーまで分与されていました。それらのものを、彼は杉茂登で消費にかかったのでした。――そういうことを、檜山はしみじみと語りました。
「君によく分るまいけれど、男の世界というものは、浅間しいものさ。」
「そうでもないわ。檜山さんのお気持ち、立派だったと思うわ。」
「どこが立派だい。ばかばかしい。金はもう殆んど使ってしまったが、酒はまだ残ってるらしい。使いはたし、飲みつくして……。」
「それから、どうなさるの。」
「それが、危いものさ。」
 
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