は急速に真鍮の手摺りまで持ってゆかれて大怪我をするか、とにかく無事にはすみそうにありませんでした。リンクの中を燕のように飛んだり舞ったりしてる人々の弧線の中に、彼女は呆然として、両手をついてしまいました。その最初の、危い足で突っ立ってた時の状態、それを彼女は檜山さんにあてはめてみたのでした。酔ったはずみに、二人きりの時、そのことを話してみましたら、檜山さんは急に真顔になって、考えこんでしまいました。普通なら、生意気言うなと怒られるか、豪いことを言うぞと笑われるか、どうせ碌なことにはならないのに、聊か調子違いの結果になってしまったと、菊千代はあとで思いました。
 戦争がすんで花柳界が復活してから、熱海の移転先から戻って来て、我儘なお座敷勤めをしている菊千代から見れば、客筋はたいてい、口先ではいろんなことを言いながらも、戦争のことなどはけろりと忘れてしまってる、心身ともに肥え太った人たちのようでした。彼女が五年間世話になっていた梶さんの、一番親しい仲間の一人だった永井さんまでが、やはりそのようでした。いくら酒席の冗談にしても、あまりにひどすぎることを、彼は平気で言ってのけました。
「ねえ、菊ちゃん、君はまだあいてるんだろう。空家払底の当節だから、用心しなけりゃいかんよ。うっかり人をもぐりこませたら、もう決して立ち退かないからな。」
 それが、大勢の人中でのことでした。菊千代は捨鉢につっかかってゆきました。
「ええどうせあたしは空家ですよ。月ぎめの人でも、年ぎめの人でも、先口に貸してあげるわ。」
 なにか口惜しさがこみあげてきて、たて続けに酒を飲んでやりました。――菊ちゃんなどと、昔通りの呼び方をして貰いたくなかったのです。空家などという露骨なたとえも、浮気封じの底意かと善意に解釈しても、永井さんの口から出るべきものではなかったでしょう。
 梶秀吉がなにか特別の用務を帯びて南方へ渡る途中、台湾沖で乗船を沈められて亡くなったことを、正式に菊千代のもとへ知らせてくれたのも、永井さんでしたし、未亡人恒子さんの旧怨をすてた意向を受けて、告別式に出られるようそれとなく計らってくれたというのも、永井さんでした。菊千代は梅葉姐さんと一緒に、人中に隠れるようにして霊前に焼香しましたが、そのすぐあと、立ち並んでる遺族のなかの未亡人とおぼしいあたりへ、足をとめて頭を下げた時、自分でも思いがけなく涙をほろりとこぼして、それから暫くは顔が挙げられませんでした。
 梶さんは出発に際して、生命の危険を覚悟していたようでした。菊千代にも当分の生活に困らないだけのことをしておいてくれました。だが、南方行きの事情については、梶さんはあまり語らず、菊千代もあまり尋ねませんでした。二人の仲は、互に愛し合ったというのではなく、旦那と芸者との最も普通な水準だったでありましょうか。
 それでも、菊千代の心に深く残ってることがありました。梶さんの出発間際に、公開の舞踊の会がありまして、菊千代は『高尾ざんげ』を出しました。戦争は次第に苛烈さを増して、踊りの会などもそれが最後かと思われました。梶さんは忙しい時間をさいて、永井さんと一緒に来てくれました。
 菊千代は心をこめて高尾の霊を踊りました。塚の出から廓の物語など、自分でも気持ちよいほどみごとに運びましたが、どうしたことか、終りになってつまずきました。照明が変って夜明けの色が漂うあたりで、彼女の心は唄の文句から離れてゆき、稲妻の光りが交叉し、世の人の煩悩につきまとわれるあたりになると、もう彼女は高尾の霊になりきれず、なにか夢を追い求める一抹の気が、責め呵まれる形を崩してしまいました。そして最後に、塚の中へひっこむことが一瞬ためらわれる、そこのところを、別な気持ちから漸く調子を合せました。
 楽屋で、お師匠さんは鋭い眼付きで菊千代をじっと眺めましたが、何にも言いはしませんでした。菊千代も、てれたように黙っていました。自分のうちに何かを見出したような心地でした。あすこのところまで高尾の霊になりきるには、すべてを捨て去らねばならなかったでしょう。それが出来なかったのは、やはり、梶さんに対する情愛のせいだったのでしょうか。それよりも寧ろ、梶さんの平安を祈る人間らしい意気、そういう風なものだったのでしょう。
 それらのことすべて、敗戦によって押し潰されてしまいました。菊千代は空家になったばかりでなく、肥え太った人々の間でそれが公言されました。彼女は反撥して酒を飲みました。檜山啓三とはよい飲み相手でした。

 気儘な勤めとはいえ、菊千代はさすがに、永井さんから呼ばれると、故人梶秀吉との義理合いもあって、顔を出さないわけにはゆきませんでした。永井さんははじめ、会社関係の人たちと一緒に来ましたが、次第に、一人で来ることが多くなり、菊千代の身辺の
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