高尾ざんげ
――近代説話――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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 終戦後、その秋から翌年へかけて、檜山啓三は荒れている、というのが知人間の定評でありました。彼が関係してる私立大学では、十月から授業を開始しましたが、彼は一回も講義をしませんでした。家庭では、習慣的に書斎に籠ることが多かったようですが、家人の言うところに依りますと、殆んど読書はせず、漫然と画集を眺めたり、座布団を二つに折って枕とし、朝からうとうと眠ったりして、そしてやたらに煙草ばかりふかしてるそうでした。来客に対しては、すべて無口で不愛想でした。もっとも、それらのことだけでは別に問題ではありませんが、彼はひどく酒に耽溺して、その先が荒れるのでした。日本酒やビールに酔ってくると、あとはウイスキーをあおりました。彼がいつも飲みに行く新橋花柳地区の杉茂登には、二箱ばかりのサントリーが預けてあるとの噂もありましたが、真偽のほどは分りかねます。酔っぱらってからの彼は、ひどく怒りっぽくて、友人たちに対しても女たちに対しても、些細なことで突っかかっていきました。それも、相手に向ってではなく、自分自身に向って腹を立ててるような調子でした。或る時、突然席を立って帰りかけ二階から階段を逆様に匐い降りたことがありました。滑らかに拭きこまれてる階段を、手先と肱で逆様に匐い降りてゆき、終りまでは持ちこたえず、横倒しに転げ落ちました。また、冬には珍らしい大雨のあと、街路の一部に水溜りが出来ていました時、彼はわざわざそこに踏みこんで、最も深いところを選み、膝まで水に浸って、ざぶざぶ渡って行きました。この種の話は他にいくらもあります。消費した金も相当なもので、彼は戦争中に軍報道部の秘密な仕事に関係していて、終戦時に可なりの金額を手に入れたとの噂もありましたが、これも真偽は明らかでありません。
 そういう檜山でしたが、然し、最後に踏み止まる一線をまだ持っているようでした。いくら酔っても、そのままつぶれてしまうことはなく、杉茂登に泊りこむことはなく、遅くなっても必ず自宅に帰ってゆきました。もっとも、これは菊千代の微妙な心遣いによることも多かったようでした。
 飲み疲れても檜山はまだ立ち上ろうとせず、一人ぽつねんと、脇息にもたれ、両腕を組んで、憂鬱そうな溜息をつくことがありました。菊千代はかいがいしく卓上の小皿物などを取り片付け、きれいにウイスキーの瓶だけにして、足附きグラスを檜山の前に差し出しました。
「さあ、おしまいにもう一杯、元気をつけていらっしゃいよ。それとも、ハイボールにしてきましょうか。」
 眼鏡の下にうすら閉じかけてる眼を、檜山はびっくりしたように見開いて、菊千代を眺めました。
「君、まだいたのかい。」
「だって、僕が帰るまで帰っちゃいけないって、恐ろしい見幕だったわ。いつもそうなのよ。」
「そうなんだ。だから… 感心してるよ。」
「感心はいいけれど……。」
「ちっと、迷惑なんだろう。」
「いいえ。ただね、檜山さん少し心細いわ。」
 菊千代が深々と見入ってくるのを、檜山は避けて、ウイスキーを一息に飲み干しました。そして真摯な眼色になりました。
「君の言うことは分るよ。だが、まあ当分は大丈夫だろう。」
「足がかりが出来てきたの。」
「出来やしないさ。だが、そう易々と滑り出しもしないよ。」
「危いもんね。」
「いよいよの時は、君を足がかりにするからね。」
 菊千代は頭を振りました。
「それは、無理よ。」
「いや、そんな意味じゃない。ただ足がかりだけだ。」
 菊千代はじっと檜山を見て、顔を伏せました。
「あたしも、そんなら、いよいよの時には、檜山さんを足がかりにしようかしら。」
「よかろう。約束しよう。」
 そして、二人は握手をしましたが、菊千代は寒そうに肩をすくめ、檜山はまた溜息をつきました。
 足がかりの話が、いつしか、二人の心の繋がりともなっていました。――檜山は荒れてるという友人間の説が、菊千代にはどうもぴったりこず、檜山さんはただ足をしっかり踏みしめることが出来ないでいるのだ、と感じました。菊千代自身、いくらかそういう状態でした。そして彼女は、むかし、朋輩に誘われて、山王下のスケート場に遊びに行った頃のことを思い出しました。おずおずと、手摺につかまったり、友の手につかまったりして、氷の上を歩いているうちは、まだよかったのですが、独り立ちで滑りはじめる段になると、全然見当がつかなくなりました。足だけが軽く、上体がいやに重く、前後左右いずれへか引っくり返って気絶をするか、或
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