気弱に言いながら、檜山は眼鏡の奥からへんに眼をぎらぎら光らして、菊千代を見つめました。毒気……とも言えるものを菊千代は感じて、ちょっと身を退きかけましたが、瞬間、別な力に引き戻される心地で、それを、ウイスキーの瓶に踏み止めました。
「そんなら、飲んでおしまいなさいよ。あたしもすけてあげるわ。」
「飲めなかったら、打ち割るまでさ。」
床の間に、花は活けずにただ青銅の花瓶が置いてありました。それをめがけて、檜山は酒瓶を振りあげました。とたんに、菊千代は両袖でその手首を抱きかかえました。
「ばかだね、身振りだけしてみたんだよ。」
「あたしも、お芝居をしてみたのよ。」
なにか面はゆく、菊千代は立って硝子戸を開けました。月はないのに仄明るく、いつしか雪が降りだしていました。
「また降ってきたね。」
返事がないので、振り向いてみますと、檜山は涙ぐんで眼をしばたたいていました。菊千代は驚いて、席に戻りましたが、言葉が出ませんでした。大きな感動に似たもので、頭がふらふらしました。
「僕は、どうも駄目らしい」
ぽつりと言われたのへ、菊千代は押っ被せました。
「檜山さん、眼をつぶって二階から飛び降りる……そんなこと、考えなすったことがあって……。」
檜山はうるんだ眼で、菊千代を眺めました。
「あたし、ほんとに酔っ払うわ。どうなっても知らないわよ。」
菊千代は立ち上って、あわただしく階下へおりてゆき、帳場にいるお上さんのそばに、ぴたりと坐りました。
「お上さん、お願いよ。今晩、お頼みするわ。検番ぬきに、あたしもお客さんなみにね。」
お上さんはゆっくり頷きながら、小首をかしげて、菊千代の様子をじっと眺めました。
「それから、お銚子をどうぞ。」
事務的な調子で言い捨てて、菊千代は二階へ足早にのぼってゆきました。
檜山と菊千代との仲は、急に深くなってゆきました。スケート・リンクの真中に足がかりが出来たようなものでしたが、それも、あちこちへ滑りだす危険が無くなったというだけのことで、踏んまえた場所がずるずると深く沈んでゆく感じでした。
檜山の親友の山田さんの話では、檜山は少しずつ勉強を始めたようでしたが、まだ全く本気にはなれないでいるとのことでした。菊千代の方では、他のお座敷に出ることがひどくばかばかしくなってきました。それに丁度、預金の支払制限と封鎖、流通紙幣の新旧切替えとなり、杉茂登にも二人名義の不義理が重なってゆきました。檜山は多少の株券を売却し、大切な蔵書にも手をつけかけてる様子でしたが、外泊が度重なるにつれて、妻子のある家庭では紛議がもちあがりかけてるようでした。菊千代の方でも、梶さんの一種の戦死のあとのことゝて、さすがに朋輩間の蔭口も聞き捨てにならぬものがありました。新小松の菊千代といえば、相当に意気と張りとで立ったもう姐さん株でありましたが、その沽券も崩れかけてきたようなひがみ心が、彼女自身のうちに芽を出しかけてきました。そこへまた、熱海で堅気になってる梅葉姐さんから、熱海へ戻って来ないかと熱心な勧誘がありました。――東京の焼け残りの狭い家に、幾人ものひとたちと同居してるよりは、熱海の静かな家に住んだ方がよかろうということ、どうせ花柳界はまた閉鎖になる運命にあるらしいこと、熱海には今のところ、長唄と踊りの適当な師匠がないので、菊千代が来てくれれば、皆が喜ぶだろうし、長唄を教え踊りの手ほどきなどして、充分に生活も出来るだろうということ……。梅葉姐さんは東京まで出て来て菊千代に説きました。
「あの、先生とのことも聞きましたよ。だけど、末長く続くものでもありますまい。それとも、別れられないというのなら、熱海にいても、逢えるではありませんか。芸者稼業なんかより、遊芸の師匠の方がりっぱでよくはありませんか。田舎のお母さんや兄さんたちも、その方を喜んで下さるに違いありませんよ。」
菊千代は長い間うつむいていましたが、やがてきっぱりと眼を挙げて答えました。
「よく分ったわ。もうちょっと、考えさしてね。」
然し、考えることなどありませんでした。ただ気持ちの問題だけでした。眼をつぶって二階から飛びおりたようなあの気持ち、それをどうすればよいのでしょう。また、檜山さんは或る時、船を焼くという話をしたことがありました。昔のこと、遠い国のこと、知らない土地を占領に出かけた勇敢な人々は、海を渡って来た自分の船をそこで焼き捨てて、帰りの退路を自分で絶ち切ってしまったとか。それと同じ気持ちだと檜山さんは言いました。その檜山さんの気持ちをどうすればよいのでしょう。
菊千代はその頃、俥が嫌いになって、はでなお座敷着でないのを幸に、考えながら歩いて杉茂登へ行きました。堀割の水に灯がちらほら映っているのを、我知らず足を止めて眺め入ることもありました。す
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