ぐ向うは焼け跡で、五月の青草の匂いが風に乗ってきました。戦争はもう遠い過去に追いやられていましたが、しかし、あとには、ただむなしい空虚が残っていました。
ひしと胸にせまる悲しさを懐いて、菊千代は何の喜びもなく杉茂登のいつもの室にはいってゆきました。
檜山はへんに酔っぱらって寝そべっていました。
「やはり、歩いて来たの。」
「ええ。」
にっこり笑おうとしたのが、頬にこびりついてしまって、菊千代は項垂れました。
「ちょっと、そのまま立っておいでよ。」
腑に落ちないで佇んでる菊千代の足先を、いきなり、檜山は両腕に抱きかかえて胸に頬に押しあてました。
「あら、そんなこと……。」
折り重なって倒れたのを、檜山はたすけ起して、自分もきちっと端坐しました。
「君の足に感謝したんだよ。僕はどうしても、君と別れられそうもない。」
「そんなら……。」
言いかけて菊千代はやめました。やはり、檜山も別れることを考え悩んでいたのでしょう。けれどその時、檜山は眼を異様に光らして、別な意味にとりました。
「ねえ、死ぬ気かい。」
菊千代は頭を振りました。
「こんどは、生きるのよ。」
「こんど……。」
「二階から飛びおりたり、船を焼きすてたりして、もう死んだのよ。だから、こんどは……。」
「それもよかろう。」
から元気か本当の元気か、そのけじめもつかない気持ちで、二人は酒を飲みはじめました。話もとぎれて、気がめいりそうなので、菊千代は小唄を口ずさんで微笑しましたが、ふと、清香さんを呼んでみる気になりました。
清香が来るのを待つ間に、菊千代は檜山に劣らず酒をあおり、酒の勢いで梅葉姐さんからの話をしてみました。
「誰がそんなことを考えたんだい。」
「だから、梅葉姐さんよ。」
檜山は両手で頭をかかえて、卓上に眼を据えました。まるで殴られでもしたかのようでした。
「だけど、そんなことになったら、なんだか違うわね。」
「なにが……。」
「今と違うわ。」
「そりゃあ、違うけれど……。」
「その方がいいの。」
「よくはないよ。だけど、ためしに、半月ばかりやってみるか。」
「ためしに半月ばかり……。」
「いや、一週間でよかろう。僕もついていくよ。」
「ほんとに行きましょうか。」
然しそれが、温泉へ遊びに行くのか、生活を立て直しに行くのか、まだはっきりしないうちに、菊千代は突然、胸がつまって涙を
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