落しました。
「え、どうしたの。」
檜山は菊千代の手を執りました。菊千代はその手を握り返してにっこり笑いました。
「もっと飲みましょうよ。」
そして、清香が来た時には、菊千代はもうすっかり酔っていました。
「あたし酔ってるのよ。あんたも酔いなさい。」
清香は善良な笑みを浮べました。
「たいそうな元気ね。」
「そうよ。酔ってもね、気は確かよ。」
菊千代はふらふらと立ち上りました。
「心は確かよ。」
そのまま出て行って、暫くすると、三味線をかかえた女中を連れて戻ってきました。
「あんた弾いてよ。あたし踊るから。」
爪弾きで、『高尾ざんげ』を清香は弾きだしました。
「はや持来ぬと……あすこからでいいわ。」
枕屏風を塚に見立てて、菊千代は高尾の霊になりました。するりとはいりこむことが出来たのを、自分でも感じて、振りが自在に運びました。細長い眼が心持ちつり上り、頬の肉が痛そうなまでに引き緊り、上体も足もすらりと伸びて弾性をもって撓みました……。そして踊りぬいて、中途で息を切らし、そこに屈みこんでしまいました。
「もういいわ。」大きく息をつきました「分ったわ。生き身を捨てた気持ち、分ったわ。」
いつまでも凝視し続けてる檜山の前に来て、菊千代は淋しそうに微笑みました。
「熱海のこと、大丈夫よ。ね、分って下さる。分ったら、もっと飲まして。」
清香は怪訝な面持ちで、二人に酌をしてやりました。
それから一ヶ月ほど後、菊千代は正式に芸妓の廃業をして、熱海へ引き移りました。家は梅葉姐さんの持ち物で、こじんまりした洒落た構えでした。万事のこと梅葉姐さんが世話してくれて、小女を一人使い、長唄と踊りの手ほどきに出稽古をすることになりました。
それからまた一ヶ月ほどたった頃、ちょっと、檜山がやって来ました。互にまじまじと顔と顔を見合ったほど、なんだか二人とも変っていました。菊千代はいくらか肥って健康そうになり、そのくせどこか老いこんだ様子に見えました。檜山は少し痩せて、その代り精力的な様子に見えました。
檜山は旅館へ案内されるものと思っていましたが、菊千代の住居の方へ連れてゆかれました。
「あたしの旦那ってことになってるのよ。宿屋なんかに行くより、その方が、人目にもつかないし、あたしの貫祿……おかしいわね、梅葉姐さんそう言ったわ……貫祿のためにいいんですって。」
梅葉
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