高千穂に思う
豊島与志雄

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 高千穂峰はよい山である。
 霧島神宮駅から、バスで約二十分、霧島神宮前に達する。数軒の簡易な旅館がある。その一軒の店先で、六月上旬の梅雨のはれまの或る日、私はただ一人、登山姿といっても、洋服の上衣をぬぎ、ズボンの裾をまくり、靴を足袋とはきかえ、草鞋をつけ、金剛杖を手にしたに過ぎない。ここから高千穂の頂上まで七キロ半ばかりの道程、普通の足なら六時間で往復されるのだ。
 狭くて深い谿谷の上に架してある神橋を渡り、石段をのぼり、朱塗りの鳥居をくぐり社務所の前を右折すれば、正面が神宮社殿である。その社殿に至る石段の下、警士の哨舎の前を、左へとって登山道である。
 暫くは杉の木立、やがて、暖帯常緑濶葉樹の天然林となる。
 この天然林は、山の中腹以上の広い地域に亘っている。伐採はすべて禁ぜられ、神宮聖域の幽邃な風致が保存せられている。
 濶葉樹の天然林には、柔かな神秘の影がこもる。鬱蒼たる茂みが日の光を濾過して、美妙な明るみを内にはぐくむ。道にはい出してる蚯蚓は、長さ尺余のものがあり、朽葉の間を鰻のように走って、紫色に光っている。掌大の白い翼の蛾が、苔むした樹幹にとまっていて、怪しい幻覚を起させる。
 この山道の感銘には、俗塵を脱した清浄さ以上のものがあり、深い奥行がある。
 東京の街路の中のロータリー、芝草と数株の灌木との僅かな緑地、あの中に、ひらひらと飛んでいる一匹の蝶は、人の微笑を誘う。この種のものを、東京の都市は、各処に数多く持っている。官庁街と事務所街と殷賑街とを除いて、東京が一種の村落都市と云われる所以である。そして近来、村落都市の厚生上及び軍事上の価値が、改めて認識され始めた。然しその東京に於て、上野の山の杉の古木は年々枯死してゆくし、代表的名園たる後楽園の樹木は、保育保存に多くの苦心を要するとかいう。
 これに比ぶれば、城山を持つ鹿児島市の幸福が偲ばれる。域山は史跡として名高いばかりでなく、またその天然林によって特殊である。数百種の樹木、その中には珍種も多く、豊富な種類の歯朶を含む。この天然林に蔽われた城山が、都市の裏手を限って聳えている。
 人間と自然との関係は、もはや往時のそれではなく、自然そのものはもはや存在せず、ただ自然の風景が存するのみだと、そう説かれる。それは真実であればあるほど、吾々は自然に対する一種の郷愁を感ずる。地上の巣に対する空飛ぶ鳥の郷愁だ。
 高千穂山腹の天然林のなかで、都市ははやくも遙か後方に遠ざかる。都市が後方に遠ざかることは、原始へと遡ることだ。
 山道は、谿谷の左岸づたいに上ってゆく。谿谷のなかには、ささやかな流れがある。木の間がくれに見える谿谷は、青苔のはえた岩石で、そのなめらかな岩肌が川床となっている。岩肌の上を流れおちる水は、清冽だが、殆んど音を立てない。
 十和田湖の水をおとす奥入瀬の谿谷は、急湍奇岩で人を魅惑するが、ここのささやかな谷川は、それが木の間がくれに隠見するだけに猶更、そして岩肌の上を音もなくすべり落ちるだけに猶更、人の眼を惹き心を惹く。
 私はふと、三好達治の詩を思い起した。

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この浦にわれなくば
誰かきかん
この夕この海のこえ

この浦にわれなくば
誰かみん
この朝この草かげ
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 詩の感覚を置き換えたのである。浦ではなくて山道だ。海ではなく天然林だが、深い天然林には静寂そのものの声が聞える。草ではなく溪流だが、ひそやかな谿流は眼を向けなければそれと分らない。
 然し私は、足を早めなければならなかった。汽車の時間の都合で、余裕がなかったのだ。初め、霧島神社に参拝し、旅館の店先へ引返し、姿を変えてまた登山にかかったので、だいぶ時間を費し、そのため、六時間行程の登山を五時間半以内になさねばならなかった。

 急ぐこと約三キロ、鬱蒼たる林の前方が忽然と開けて明るく、その外光のなかに、数本の赤松が空高く亭立している。
 それが標識だ。天然林はつきて、低い雑木交りの小松林となる。道は乾燥し、空気も薄くなり澄んでくる。高原の感じだ。この感じは、登るに従って次第に、高原から山の背のそれへと変ってゆく。
 ここに、真に高燥な大気がある。高原だけではいけないのだ。代表的高原たる軽井沢や戦場ヶ原や仙石原などに、湿潤な重い大気が漂っているのは地勢の故であろうけれど、那須や北軽井沢や赤倉や富士見なども、その大気は低燥という感をまぬかれず、山の背に至って初めて高燥となる。
 高燥な大気の中では、思念も軽く、足も軽い。眼前の中空に聳ゆる峯に引かれて、二キロ半ほど登ったかと思うと、ここに
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