彼はそれに断然反対するのです。
「今年は止めます。一年近く遊んどりましたから、何もかも忘れてしまって、とても通りゃしません。そして今年落第すると、気が折れていけません。一遍にすっと通らないようじゃあ、つまりませんから。」
「なるほど。」
「先生は昔落第なさったことがありますか。」
「さあ、一度もその覚えはないが。」
「そうでしょう。私もそんな風にゆきたいんです。」
 思いつめたようなその言葉の調子に、私は快い微笑を禁じ得ませんでした。所がいろいろ話してるうちに、困ったことが一つ出て来ました。
 彼はさげて来たバスケットと、やがて駅から市内配達で届くという柳行李とに、衣服や書物や一通り身の廻りのものは揃ってるそうでしたが、夜具の用意は一枚もなかったのです。それから下宿についても何の当もなく、どうも初めから私の家へ落付くつもりだったらしいんです。
「先生の家じゃいけないんですか。」と平気でいるんです。
「だって君、この通り、家には二人も子供がいるし、君が落付いて勉強する室もないんですからね。」
「へえー、そうですか。」
 別に驚いたようでもなくただ不思議がってるらしい彼の顔付を見て、私と妻
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