はありませんが、東京の市内では、重い荷物を持って電車にも俥にも乗らずに、停車場から一里以上も道をきききき歩いてくるというのは、どうも常識に合わないやり方なんです。と云って、東京の者は少しも歩くことがないというのではありません。用のない時には、散歩なんかする時には、随分長く歩くこともあります。然し用があって出歩く時には、必ず何かの乗物を利用するのが普通です。殊に荷物を持ってる時はそうです。
 所で平田伍三郎は、九州から東京まで汽車に乗り続けて、朝の八時半頃東京駅へつき、それから重いバスケットをさげて寒い風の吹く中を、道をきききき歩いてきて、十時頃私の家へ辿りついたのです。そして私の不在中、昼飯の時に何度も茶碗を差出しながら、彼はこう云ったそうです。
「朝飯を食べなかったもんですから、腹が空ききっとりますので……。」
「まあー。」と妻は喫驚しました。「じゃあそう仰言ればよかったんですのに。」
「云ってよいかどうか考えとるうちに、午《ひる》になってしまいましたんです。」
 そういう風に、至極善良な親しみを彼は私共に齎しました。風呂にはいり夕飯を済ましてから、その晩私と妻とは彼を相手に、遅くま
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