ると云ったものだから、面倒くさいと思って黙って帰ったんだろう。」
「でも、そんなことをしそうな人じゃありませんわ。」
 それは妻の云う通りでした。けれど私はこちらからわざわざ訪ねてゆくこともしないで、そのまま八月九月と過しました。暑気が激しいし、会社に一寸ごたごたが起るし、子供が病気をするし、いろんなことで頭が一杯でした。
 そして十月の初めに、私は夢にも思わなかったことにぶつかったのです。
 母上
 その時私は帝国劇場の食堂で、一人ちびりちびり酒をのんでいました。何だかひどく憂鬱だったのです。劇場の幕間の廊下の綺羅びやかな空気に気圧された気持で、自分自身が惨めに思われ、自分の日々の生活が惨めに思われて、而も頭が変にぼーっとしています。実は会社の帰りにふと思いついて、連れもなく一人で飛び込んだのがいけなかったのかも知れません。
 で私は、ぼんやり食堂にはいり込んで、窓際の席に腰を下し、外のきらきらする夜景を眺めながら、一寸した料理で酒を飲んでいました。
 そのうちに開幕のベルが鳴って、広間の中がざわざわ立乱れ初めましたので、私も立上ろうかどうしようかと、一寸思い惑ってる途端に、乱れた人
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