とは笑い出しました。が次には、仕末に余った憂欝な気がしてきました。
「ほんとに田舎の人は、呑気なのか図々しいのか、訳が分りませんね。」と後で妻が私へ云いました。そして私も全くその通りに感じたのです。
母上
東京では近隣に対する感情が、田舎とは全く違います。田舎の村では、人々は父祖代々同じ屋敷に住んでいるし、家も家敷も大抵自分の所有であるし、一家族引連れてよそへ移住したりよそからやって来たりする者がなく、誰はどこ彼はどこと、昔から一定不変の安住地を持っていますので、隣近所はまるで親戚同様に懇意です。いえ隣近所ばかりではなく、村全体の人達が、ひいては隣村の人達までが、互に親しい結合をつくっています。けれど東京では、住居の移転が激しかったり、生活が種々雑多であったりするために、隣同士でも全く無関係な他人であることが多いのです。私は今の家に住んでからもう四年になりますが、隣家の主人の顔を見たことはほんの数えるだけしかありません。隣家の人がどういう仕事をしていてどういう暮し方をしているか、そんなことについては何一つ詳しく知る所もありません。大抵みな借家住居ですし、どこからやって来た人か分らないし、またいつどこへ引越してゆくか分らないし、云わば、偶然近くにかりの住居をしているに過ぎないのです。そんなわけで、隣近所の誼などというものは殆んどありません。それが便利でもあればまた淋しくもあります。そして、地方から出て来て長年東京に住んでる者は、そういう対人関係にいつしか染んでしまって、ひいては、故郷の人達に対してもさほど親しみを感ぜられなくなります。『田舎の人は小豆一升持って来て、十日も二十日も泊り込んでゆく、』という言葉があります。これは、近隣に対する感情が、東京と田舎とは全く違ってることを示すものです。田舎では、家敷も広いし家も大きいし、食物も沢山あるので、一寸知り合いでさえあれば、よそからやって来て幾日泊り込もうと、却って賑かだくらいに思われるのですが、東京になりますと、広い邸宅を構えたよほど裕福な家でない限りは、とてもそんなことは出来ません。普通の家では、家族だけで丁度一杯の住居だし、夜具布団も一二組の余分しかないし、食物も余分の蓄えなんか更になく、月の経済も大凡きまっているし、忙しい日々の仕事もあるし、同郷同村の誼くらいで――東京人の心には殆んど響かないそんな誼くらいで、小豆一升の土産で十日も二十日も泊り込まれたのでは、実際やりきれないんです。だから東京には上等から下等まで、到る所に宿屋が多いんです。
とは云いましても、地方出の東京人は故郷に対する愛着を失ってるわけではありません。近隣関係の稀薄なために、故郷の土地に対するなつかしみは、増すとも減る気遣いはありません。然しそれはあくまでも故郷の土地に対してです。故郷の人々に対してではありません。故郷の人々の記憶がいくら薄らごうとも、故郷の山や川や野原は、昔の思い出にとり巻かれて、益々なつかしく輝き出すものです。国亡びて山河ありという言葉は、新らしい別な意味で、地方出の東京人の胸にぴたりときます。
話がわきにそれましたが、平田伍三郎がやって来た時私は、前申したような地方出の東京人の一人だったのです。その上私は大変貧乏でした。月々の月給で漸く生活してるきりで、家計の余裕なんか更になく、家も家族だけで一杯だし、夜具の余分も来客用の一組しかなく、友人の出入も可なりあるし、どの点から考えましても、たとい下宿料を貰っても、平田伍三郎を家に置くことは出来なかったのです。それに、特別の縁故でもあれば兎に角、彼と私とは九州の田舎の隣村に生れ合したというだけで、全くの他人じゃありませんか。
で私は、折角彼に好感を持ち初めたのに、変にそぐわない気持になって、苦笑を洩しながら云いました。
「随分無鉄砲だな、そんな相談はちっともなしに、いきなり僕のところへ飛び込んでくるなんて……。この通り、家じゃとても駄目ですよ。」
「それじゃあ、下宿屋でも探さにゃなりませんかしらん。」
「まあそれより外に……。だが、毎月五十円ずつ来るというのは確かでしょうね。」
「ええ確かです。もう千円ばかりアメリカから送って来とる筈ですから。」
「それなら何も心配はいらない。気持のいい素人下宿でも探すんですね。ただ、布団だけは持っていないと大変不経済だし、借りたのでは長い間の辛棒は出来ないから、すぐに送って貰うように云ってやったらどうです。」
「そうしましょう。」
そこで、布団が来るまで彼は一時私の家にいることになりました。
母上
平田伍三郎が私の家にいたのは、二週間ばかりの間だったと覚えています。そして彼は、当にしていた私の家に長く居るわけにはゆかず、やがて一人で下宿へ移らなければならないことを、別に悲観した風もなく、四
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