、」とその時妻が眼付で笑いながら私へ云いました、「平田さんは東京駅から家まで歩いていらしたんですって。」
「歩いて……。そして荷物はどうしたんです。」
「重いバスケットをさげて歩いていらしたんですよ。」
「へえー、東京駅から此処まで……。」
「先生、私は歩むのは平気です。東京の道は分り悪いから、電車やら俥やらに乗るより、歩んでゆくが一番確かだと云われましたから……。」
 そして、私と妻とが眼で微笑み合ってるのを見て、平田も浅黒い顔をにこにこさせました。
 母上
 これはあなたには分らないかも知れませんが、厚ぼったく綿のはいった久留米絣の羽織着物をつけ、小倉の短い袴をはき、吊鐘マントをまとって、重いバスケットをさげながら、東京駅から私の家まで、一里余りの道をてくてく歩いてきた平田の姿は、ひどく滑稽なようなまた朴訥なような、云わば笑っていいか愛していいか分らないものに、私達の眼へは映ったのです。田舎では一里二里の道を歩くのは何でもないことで、平田がやってたように(後で聞いたのですが)、町の中学校まで一里余りの道を、半分以上軽便鉄道の便がありながら、毎日徒歩で通学するのも、別に不思議なことではありませんが、東京の市内では、重い荷物を持って電車にも俥にも乗らずに、停車場から一里以上も道をきききき歩いてくるというのは、どうも常識に合わないやり方なんです。と云って、東京の者は少しも歩くことがないというのではありません。用のない時には、散歩なんかする時には、随分長く歩くこともあります。然し用があって出歩く時には、必ず何かの乗物を利用するのが普通です。殊に荷物を持ってる時はそうです。
 所で平田伍三郎は、九州から東京まで汽車に乗り続けて、朝の八時半頃東京駅へつき、それから重いバスケットをさげて寒い風の吹く中を、道をきききき歩いてきて、十時頃私の家へ辿りついたのです。そして私の不在中、昼飯の時に何度も茶碗を差出しながら、彼はこう云ったそうです。
「朝飯を食べなかったもんですから、腹が空ききっとりますので……。」
「まあー。」と妻は喫驚しました。「じゃあそう仰言ればよかったんですのに。」
「云ってよいかどうか考えとるうちに、午《ひる》になってしまいましたんです。」
 そういう風に、至極善良な親しみを彼は私共に齎しました。風呂にはいり夕飯を済ましてから、その晩私と妻とは彼を相手に、遅くまで話し合ったり笑ったりして、初めて彼の事情をよく知りました。
 彼は前年の春中学校を卒業して、将来の方針を立てるのに愚図ついてるうち、上の学校への入学期も過してしまった。そして兎も角農業をやってると、アメリカへ行ってる父と兄とから連名の手紙が、伯父宛に届いたのだった。内地で仕事をするにしてもまたはアメリカへ来るにしても、学問をしていなければ立身出世は出来ないと思うから、伍三郎には充分学問をさせてやってくれ、学費は入用なだけ送るから、とそういう文面だった。それで彼は、中学校の成績は余りよくなかったけれど、思い切って東京に出て勉強することになった。毎月五十円ずつ送って貰うことになっている。そして徴兵検査の関係やなんかもあるので、どこかの予備校にはいって勉強した上、来年の春商科大学の入学試験を受けるつもりでいる。――とまあ大体そういった話でした。
「どうせ来年入学試験を受けるのなら、今年も受けてみたらどうです。」と私は勧めてみました。
「初めから通る通らないは眼中におかないで、来年の下稽古のつもりで受けてみたら、通らなくっても残念じゃないし、通ったら一年もうかるわけじゃないですか。」
 然し彼はそれに断然反対するのです。
「今年は止めます。一年近く遊んどりましたから、何もかも忘れてしまって、とても通りゃしません。そして今年落第すると、気が折れていけません。一遍にすっと通らないようじゃあ、つまりませんから。」
「なるほど。」
「先生は昔落第なさったことがありますか。」
「さあ、一度もその覚えはないが。」
「そうでしょう。私もそんな風にゆきたいんです。」
 思いつめたようなその言葉の調子に、私は快い微笑を禁じ得ませんでした。所がいろいろ話してるうちに、困ったことが一つ出て来ました。
 彼はさげて来たバスケットと、やがて駅から市内配達で届くという柳行李とに、衣服や書物や一通り身の廻りのものは揃ってるそうでしたが、夜具の用意は一枚もなかったのです。それから下宿についても何の当もなく、どうも初めから私の家へ落付くつもりだったらしいんです。
「先生の家じゃいけないんですか。」と平気でいるんです。
「だって君、この通り、家には二人も子供がいるし、君が落付いて勉強する室もないんですからね。」
「へえー、そうですか。」
 別に驚いたようでもなくただ不思議がってるらしい彼の顔付を見て、私と妻
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