五日後には、神田の正則英語学校の受験科にはいって、英語の勉強を初めました。
「東京の学校は不親切ですね。」と彼は云いました。「鐘が鳴ると先生が教室にはいって来て、ぺらぺらぺらぺら、恐ろしい早口で饒舌り続けて、そしてぷいと出ていってしまいます。何にも分りはしません。質問する時間もありません。それに少し遅れていくと、もう坐る場所が無くなって、立っておらなければなりません。あんなに不親切であんなに繁昌するのはやっぱり東京ですね。」
 その調子は、不平を感じてるというよりも寧ろ感心しているという風でした。そして彼は毎日出かけてゆきました。その往き返りを、電車にも乗らずに必ず徒歩でやるのです。
「電車に乗ったらいいでしょう。」と私は何度も云いました。「余り歩くと疲れて、勉強の邪魔になりはしませんか。」
「いえ、歩むのには馴れとりますから何でもありません。毎日あれくらいは歩む方が身体のためになります。」
 そして頑固に徒歩主義を続けているうちに、東京の雨や雪は横から降るということを彼は発見しました。
 母上
 東京は一体に風の多い処です。殊に一月の末頃からは猛烈な北風が吹き続けます。雨や雪の降る日などは、いくら傘を上手《じょうず》にさしても、歩き続けようものなら、膝から下はずぶ濡れになってしまいます。家にいる時には風がないような気がしていても、一足街路に踏み出すと、全く横から雨や雪が降っています。
「国ではそんなことはありません。雨やら雪は真直に降るときまっとります。」
 そう云って平田伍三郎は、大発見でもしたようににこにこしていました。そしてその発見を楽しむかのように、雨や雪の中も平気で歩いて戻ってきて、女中を困らしたものです。彼の着物は前に申しました通り、馬鹿に沢山綿がはいってるものですから、ぐっしょり濡れてる膝から下を乾かすのに、女中はいつも眉をひそめたのです。
「自分でも寒いでしょうにね。」と妻は私に云いました。
 それは寒いに違いありません。ただでさえ身を切るような北風に、雨や雪が交っていては、普通の者は到底我慢しきれるものではありません。が平田伍三郎は平気でした。耳朶のはじは凍傷で赤くふくらみ、鼻の頭は真赤になっても、更に徒歩主義を捨てませんでした。それも金がなくて電車に乗れないのなら別ですが、彼はそれくらいの金は充分持っていましたし、或時なんかは、十四円もする舶来の上等な万年筆を買ったりしていたのです。彼は習慣的というよりも寧ろ本能的に、毎日いくらかでも歩かずにはいられなかったようです。日曜日には必ず半日くらい散歩しました。
 そういう風に歩くことの必要からか、彼は私の家にいる間は、一日も学校を休まなかったようです。けれども、大して勉強に熱心でもありませんでした。一つは、きまった勉強室がなくて、客間の片隅を使っているために、落付かなかったせいもありましょうが、「まだ一年あるから、」とゆっくり構えこんで、家では大抵子供相手に遊んでいました。
 彼は至って子供好きのようでした。それでも、自分から進んで子供を遊ばせるというのではなく、ただ黙ってにこにこ笑いながら、子供の相手になってるのを楽しむという風でした。それを子供達の方ではいいことにして、彼を相手にいつまでも遊んでいました。丁度四つと六つの悪戯盛りで、時によると随分しつこく彼にふざけました。耳を引張ったり、鼻をつまんだり、ワンワンをさしたり、私共が見兼ねて叱りつけるようなことも度々でしたが、然し彼はどんなことをされても平気で、始終にこにこしていました。云わば彼は黙って子供達の玩具になってるのが面白いらしく、また子供達の方では、彼を生きた人形とでもいうような風に、何の気兼も憚りもない遊び相手にしていたのです。
 それでも彼は、時折子供達相手の遊びに変に真剣になることがありました。いえ、子供相手の遊びというよりも、自分一人の遊びと云った方がよいかも知れません。或る時、彼が子供達と一緒に座敷で遊んでいるうちに、夕飯の仕度が出来上って女中が呼びに行きました。でも彼はやって来ません。二度呼びにゆくと、子供達だけやって来て、彼は一人残っています。何をしてるのかと聞くと、羽子《はね》をついてるのだというのです。でそのままにして、先に食事を初めましたが、いつまでも羽子の音が続いて、彼がやって来ないものですから、また女中を呼びにやりました。それから暫くして、彼ははあはあ息を切らしながら、陰鬱そうに眉根を寄せて出て来ました。
「何をしていらしたの。」と妻が尋ねました。
「お嬢さんと五十まで羽子をつけるかどうかかけをしたもんですから、一生懸命にやってみたですが、一度にゃとても五十は出来ません。」
 骨張った額に真面目くさった皺を寄せてるその顔を見て、私共は笑うにも笑えませんでした。不器用な頑丈な手
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