で、役者の似顔絵のついてる羽子板を握りしめて、五十まで羽子をつこうと決心して、子供達がいなくなった後までも、一人で座敷の中を飛び廻ってる彼の姿は、滑稽の度を通り越していました。
 それから幾日かの間、毎日羽子の遊びが続きました。彼が五十までつけたかどうかは聞き洩しましたが、その遊びのお影で、上の子は五十までの数を、下の子は二十までの数を、独りでに数えることを覚えました。
 母上
 それからも一つ、彼が私の家で興味を覚えた事柄があります。それは、台所に転ってる野菜についてです。
 或る寒い雨の日、彼が例の通り半ば濡れ鼠になって学校から帰って来た時、何かの煮物のために、釜の下に火が燃えてたものですから、妻はそこに彼を招いて火にあたらしたそうです。冬になると瓦斯の出が悪いそうで、私の家では釜の下には薪を使うことにしています。で彼はその竈の前に屈みこんで、薪の火にあたりながら、田舎の土間と違ってすっかり板の間になっていて、その上に竈を据えて薪を焚く東京の台所に、感心したりなんかしていたそうですが、そのうちに、片隅に転ってる一本の牛蒡を取上げて、不思議そうに云い出しました。
「これは何になさるんですか。」
「それ、牛蒡じゃありませんか。」と妻は答えました。「晩のお惣菜ですよ。」
「これだけでですか。」
「ええ。なぜ。」
「それでも、先生と奥さん……、」と順々に彼は二人の子供から女中から自分自身まで数えて、「みんなで六人でしょう。」
「ええ、六人のお惣菜ですよ。それをあの里芋と一緒に煮るのですよ。」
「へえー、そうですか。」
 そして彼はその一本の牛蒡と向うの五合ばかりの里芋とを、如何にも不思議そうに見比べて、さも感心したように云いました。
「東京の暮しはままごとのようですね。」
 そのことを後で妻は私に話して、こうつけ加えました。
「屹度大変倹約だと思いなすったんでしょう。でも、うっかり冗談も云えませんので、挨拶の仕様に困りましたわ。」
 この大変倹約だとか、うっかり冗談も云えないとかいうことについては、まるで嘘のような話があるのです。前に申すのを忘れましたが、平田伍三郎が私の家に来た翌日の晩のことでした。その頃私は胃が悪くて昼食をぬきにしていましたので、晩にはいつもごく腹が空いていました。その晩もやはりそうでしたから、何杯たべたかしらと妻に聞きながら、「昼飯を食わないとひどく腹がすく、」というようなことを云いました。すると平田は喫驚したように、「昼飯をあがらないのですか、」と聞くのです。「ええ、会社の高い弁当代なんかとても払えないから、二度しか飯は食わないんです。三度の飯も食えないとはこのことですよ。」所が、笑いながら云ったその言葉を、彼は本当にとったものと見えます。翌日[#「翌日」は底本では「習日」]彼は妻に向ってこう云ったそうです。「先生もお気の毒ですね。会社の弁当が高かったら、パンでも持ってお出なさればよいのでしょうに。」――そのことが、私の家の笑い話の一つとなりました。
 そういうことがあったものですから、牛蒡一本と里芋五合との件について、妻が前申したような風に解釈したのは無理もありません。然し私はそれを聞いて、彼の――平田伍三郎の――気持がはっきり分って、自分でも一寸変な心地になりました。
 母上
 田舎では食物は実に豊富です。牛肉と海の魚類とを除いては、凡てあり余るほどあります。米は何俵も蓄えてあるし、野菜物は畑から一度に畚《もっこ》一杯も取って来るし、鶏といえば必ず一羽ですし、川魚は何斤という斤目ではかります。そしてそれに応じて一度の煮物も多量です。所が東京では、毎日各種の商人が用を聞きに来まして、その日の、重に晩の一度分の少量な食物を届けます。大根一本、牛蒡一本、里芋二三合、蕪半束、魚の切身二つ三つ、肉何匁、といった風な工合です。ですから、台所に大根が半分と馬鈴薯が四つ五つ転ってたり、竹皮包みの魚の切身が置いてあったりするのを見ると、田舎の人はままごとのような世帯だと思うに違いありません。考えてみると、不思議なほど貧弱な台所です。田舎では大饑饉の折にしか見られないことです。一日商人が来なければ、一家中一日饑えなければなりません。而も、そういう貧弱な台所の煮物と、狭苦しい住居の掃除とに、主婦や女中は一日の大部分を費しているのです。
 平田伍三郎の話を聞いて、私の頭には、田舎の豊富な生活と東京の貧しい生活とが、はっきり映ってきました。そして私は、急に何だか頼りない気がしてきました。笑いごとではありませんでした。東京育ちの妻へいろいろ話してきかせますと、妻も淋しい眼付で考え込みました。
 何だか話が理屈っぽく淋しくなってきましたから、このことはこれきりにして、先を続けてゆきましょう。
 母上
 前に申しましたようなわけで、平
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