田伍三郎は長く私の家にいることは出来ませんでした。十日ばかりたって国許から布団が届きますと、自分から下宿を探しに出歩きました。そして小石川の戸崎町に一軒見付けました。他に二三人下宿人はいるが、主人夫婦きりの素人下宿で、下宿料も大変安いのです。で彼はそれにきめて、私達が無理にすすめるものですから、自分も行李と一緒に俥に乗って、先の俥に布団とバスケットとをのせて、引越してゆきました。
「行ってきます。」と旅にでも出るような挨拶をしてゆきました。
彼がいなくなると、家の中が一寸淋しい気もしましたが、然しやはり家の者だけの方が落付けました。それに彼は初めのうち、一週間に一度くらいはやって来ました。子供達が一番彼を喜び迎えました。彼は余り話もせず、にこにこしながら子供達相手に遊んで、半日や一晩を過してゆきました。そしていつしか彼は私共にとっては、屡々遊びに来る親しい客に過ぎなくなりました。その上私は毎日会社に勤めてるものですから、彼が来ても不在のことが多かったりして、ゆっくり話をする折がありませんでした。
母上
そういう風にして、二月三月四月とたって、五月半ばの或る暖い晩のことでした。彼は孟宗竹の鉢植を抱えて飛び込んで来ました。勿論孟宗竹と云っても、御地にあるような大きなものではなく、手首くらいのものですが、それが四五尺ずっと二本伸びて、上の方は程よく枯れ落ちて、その低い節から美事な枝葉が出てるのです。径一尺余りの鉢の中に植って、小さな筍が一つ出かかっています。
彼は片手と着物の裾とを泥だらけにしながら、善良な微笑を浮べて、片方の袖で額の汗を拭いました。
「下げて帰るつもりでしたが、[#「つもりでしたが、」は底本では「つもりでしたが 」]余り重いものですから、一寸休まして下さい。」
洋食屋の広間に据えてもよいほどのその大きな重い鉢植を、彼が汗を流しながら下げて帰るということも、一寸面白かったのですが、第一彼が鉢植を買うなどということが、どうも私の腑に落ちませんでした。どう思ってそんなものを買ったのかと尋ねても、ただそこの夜店にあったからと答えるきりで、一人でにこにこしています。そして、孟宗竹の鉢植なんか東京には滅多にないとか、あの筍が今にずんずん伸びるだろうとか、大変愉快そうな空想に耽ってるのです。
「だが、そんなものを買って、一体どうするつもりだい。」と私は重ねて尋ねました。
「先生も屹度お笑いなさるでしょう。下宿のお上さんも笑っておりましたから……。」そして彼はやはり一人でにこにこしています。
「僕は笑やしないよ。……一体どこに据えるんだい、そんな大きなものを。」
「窓の外に置くんです。」
「窓の外だって……。」
その時彼は不意に大きな声を立てました。
「先生を喫驚さしてあげましょうか。」
「え、何だい、不意に。」
「でも……。」と彼は声を落して一寸考え込みました。「先生は一度も私の下宿に来て下さらないから駄目です。」
「なに、行くよ、面白いことがあるんなら。」
彼は暫くじっと私の顔を見ていましたが、さも大事な秘密でも話すような風に云い出しました。
「私は自分の窓の外に、大きな庭を拵らえておるんです。」
「庭だって……。だが君の室は、二階だっていうじゃないか。」
「ええ二階です。でも窓の外に……窓と云ってよいんですかどうか……あのお家の三畳のように、下の方が少し壁になっておって、上はずっと鴨居のところまで、そして室一杯の広さに、四枚障子がはまっておる、広い大きな窓ですが、その窓の外に、物を置くところが、小さな縁側のように張出してあって、低い手摺がついております。そこに私は、庭を拵らえております。出るたんびに植木の鉢植を買ってきて、一杯並ぶだけ並べるつもりです。もう大抵一並びは並んでおります。ただみんな木ばかりで、竹籔がほしいと思っとりますと、今晩あの孟宗竹が見付かりました。あれを据えると丁度よくなります。」
「ふーむ。」
私はぼんやり彼の顔を眺めていましたが、そのどこか遅鈍そうな而も澄みきった眼を見ると、彼の気持がだいぶはっきり分ってきました。
「そんなら君、郊外散歩に行くとか、郊外に下宿を探すとかしたらいいじゃないか、鉢植……盆栽なんていうものは、自然を奪われた人間が自然を求めて考え出した一種の芸術なんで……君なんかがそんな風に、やたらに窓の外に植木を並べたってうまくゆくかなあ。」
「いけませんかしら。」と彼は従順に答えました。「だって先生、郊外に行ってもつまりませんよ。桜と埃と、大勢人が騒いでおるばかりですから。田舎ですと今頃は、森や野原から一度に青い芽が出だして、そりゃあ気持よいんです。そんなことを考えて、下宿の室に寝転んどりますと、箱の中につめこまれたような気がします。空気が暖くなってもやもやするばかりで、何
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