にもありません。それで、私は桜も見に行きませんでしたし、外にも余り出ないで、あの窓の外に庭を拵らえるつもりです。それでもいけませんかしらん。」
「いけないということはないんだろうが……。」
 その時私の頭に、今迄考えたこともない思想が、自分でも喫驚するような思想が、ふいに浮び上ってきました。
 母上
 東京と田舎とでは、家敷ということに対する感じが、非常に違います。田舎では、たとい垣根は破けて見透しになっていたり、庭先を他人が平気で通行したり、座敷の中から遠くまで見晴らせたりしても、家敷はどこまで座敷であって、その中だけが自分に属する領分であり、それから一歩踏み出すと、全く他人の領分になるわけです。所が東京では、家敷という観念が殆んどありません。広い邸宅を構えてる上流人にとっては別ですが、普通一般の人にとっては、自分の家は寝室と食堂とに過ぎないんです。そして家敷というのは――家敷と云えるかどうか分りませんが――東京の町全体なんです。街路は寝室と食堂とに引続いてる廊下の一部分ですし、公園は庭の一部分です。だから東京の者は始終散歩に出ます。一日家の中で暮してる者は勿論、朝から晩まで外を駆け廻ってる者も、戸外の街路で働いてる労働者も、皆大抵夕食後の散歩とか休み日の散歩とかに出かけます。云わば食堂から寝室へ行くまでの間に、明るく灯のともってる賑かな廊下を一廻りしてくるのです。或る外国人が、東京の町はヨーロッパの都会に比べるとまるで大きな村落だと云いましたが、それは山の手方面に比較的人家が建て込んでいないからです。けれども下町方面は、そして山の手方面でも、田舎に比べるとやはり都会です。
 そういう風ですから、自分の家だけを家敷と思って、そこに安楽に住もうなどということは、とても出来ないのです。食堂と寝室とだけで安楽な筈はありません。賑やかな街路を自分の廊下と思い、木立深い公園を自分の庭だと思わなければ……はっきり思わないまでもそういう暮し方をしなければ、家の中だけではとても息苦しくてやりきれるものではありません。或る一つの家に住むというのではなくて、東京という家敷に住むのです。
 そしてこの一つの家敷には、互に見も知らぬ無数の人間が、何とうようよ巣くってることでしょう。
 母上
 私はそういう考えを思い浮べて、平田伍三郎に説き聞かしてやりました。すると彼は、分ったのか分らないのか、一言の抗弁も質問もしないで、注意深く耳を傾けていました。
「だから、君がいくら窓の外に植木を並べたって、生活の気持が変らない以上は、とてもうまくゆくものじゃないよ。」
「そうでしょうか。」と彼は平然として最後に答えました。
「だがまあやってみるさ。」と私は云いました。「僕の云うのが本当か、君の庭が成功するか、一つ賭をしてみようじゃないか。」
「ええ。」と彼は曖昧な返事をして、善良な薄ら笑いを洩しました。
 でその話はそのままになって、彼は孟宗竹の大きな鉢植を大事そうに抱えて帰りました。
 それから、私は彼の顔を見る毎に、「君の庭はどうだい、」と冗談に尋ねるのが、殆んど口癖のようになりました。彼は何とも答えませんでしたが、妙に陰鬱な影を眉間に漂わせました。
 それに早くも気がついて、妻は或る時私に云いました。
「あんまり変なことを仰言ると可哀そうですわ。屹度一人っきりで淋しいんですよ。」
「なあに若い者は大丈夫だ。」と私は答えました。「みててごらん、今に東京が好きでたまらなくなるから。」
 そして私は平気でいました。彼も別に何とも云い出しませんでした。がただ一度、何かの話のついでに、憤慨めいたことを妻に洩したそうです。
「先生は故郷を忘れていらっしゃるんです。故郷をちっとも愛していらっしゃらないんです。その証拠には……。」そこで彼は長く考え込んだそうです。「私は初め、先生くらいになられると、国の者が大勢出入りしとるに違いないと思っておりました。所が来てみると、私がお家にいた間中、それから後も時々上る折に、国の者の来たためしがありません。どうも不思議です。先生が故郷を愛していらっしゃらないからです。」
 それを聞いて私は、不平を云ってるなと面白く思っただけで、気にもとめませんでした。故郷に対する私の感情は前に申した通りです。
 母上
 これは前と関係のないことですが、ついでにお話しておきましょう。
 私の家にアイスクリームを拵える簡便な器械がありました。牛乳と卵と砂糖と氷とを入れて、その蓋の上の柄を廻すんです。然し三十分近くも廻していなければなりませんので、女達は却って厄介に思っていました。所が六月の或る蒸し暑い日に、平田伍三郎がやって来た時、妻はその器械のことを思いついて、彼にアイスクリームを拵えさしたそうです。
 それからというものは、彼は私の家に来る毎に、必
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