ずアイスクリームを自分で拵えました。それもアイスクリームが食べたいからというのではなく、その器械の柄につかまって、背中に汗をかきながら、ぐるぐる三十分近くも廻し続けることが、彼の気に入ったかららしいんです。
「運動するのはよい気持です。」というようなことを彼は云っていました。
 母上
 考えてみると[#「 考えてみると」は底本では「考えてみると」]、私は随分久しく帰省しませんでした。隙があったら墓参旁々帰国したいと思いながら、いつも何かの用事に邪魔されて、つい延び延びになってるのでした。今年の夏も帰れそうにありませんでしたから、平田伍三郎が夏の休暇に帰国するなら、いろいろあなたへことづけたいものもあると思って、そのことを彼へ頼んでおきました。
「国へ帰ってもつまりませんから、どうしようかと考えておるんです。」と彼は答えました。
 所が、七月になると彼は十日に一度くらいしか顔を見せませんでしたし、八月の初めからはさっぱり来なくなりました。
「平田さんはどうしたんでしょう。病気じゃないでしょうか。」と妻は云いました。
「病気なら端書一本くらいくれそうなものだ。……なあに、国へことづけ物があると云ったものだから、面倒くさいと思って黙って帰ったんだろう。」
「でも、そんなことをしそうな人じゃありませんわ。」
 それは妻の云う通りでした。けれど私はこちらからわざわざ訪ねてゆくこともしないで、そのまま八月九月と過しました。暑気が激しいし、会社に一寸ごたごたが起るし、子供が病気をするし、いろんなことで頭が一杯でした。
 そして十月の初めに、私は夢にも思わなかったことにぶつかったのです。
 母上
 その時私は帝国劇場の食堂で、一人ちびりちびり酒をのんでいました。何だかひどく憂鬱だったのです。劇場の幕間の廊下の綺羅びやかな空気に気圧された気持で、自分自身が惨めに思われ、自分の日々の生活が惨めに思われて、而も頭が変にぼーっとしています。実は会社の帰りにふと思いついて、連れもなく一人で飛び込んだのがいけなかったのかも知れません。
 で私は、ぼんやり食堂にはいり込んで、窓際の席に腰を下し、外のきらきらする夜景を眺めながら、一寸した料理で酒を飲んでいました。
 そのうちに開幕のベルが鳴って、広間の中がざわざわ立乱れ初めましたので、私も立上ろうかどうしようかと、一寸思い惑ってる途端に、乱れた人込の中から不意に、一人の青年が真直に私の方へやって来ました。
「先生、御無沙汰しました。」
 にこにこ笑いながら、頭をかいています。その顔を見て、私は全く喫驚しました。平田伍三郎だったのです。
「ああ君か。すっかり変ったね。どうしたんだい。」
 すると彼は左の手で軽く頭を押えてみせました。
「お伺いするつもりでしたが、こいつのためにすっかり……。」
 なるほど彼は髪を長く伸して、オールバックにしていました。まだ頂上は少し伸びきらないとみえて、毛並が揃っていませんでした。それからセルの着物に一重羽織なんか着込んでいます。どう見ても以前の彼とは全く様子が変っていて、態度から言葉付まで東京の学生らしくなりすましています。
「見違えるほど変ったじゃないか。」
「だから私は、先生にひやかされるだろうと思って、ひやひやしていましたが、やっぱり……。」
「ひやかすんじゃない。感心してるんだよ。」
 そんな風に話を初めて、私達は芝居が初まってるのも知らん顔で、酒をのみました。彼は私の家にいる時からそうでしたが、酒はいくら飲んでも本当には酔わないから、結局飲んでも飲まなくても同じだと云っていました。その不経済な杯を、彼はしきりに空けながら、やがてじっと私の顔を見つめてきました。
「先生、私はやはり賭に負ました。」
 そして一寸彼の眉間に陰欝な影が浮びましたが、次の瞬間にはもう晴れやかな顔に戻っていました。
「賭って……何の賭だい。」
「あの……窓の外の庭のことです。」
 私はもう忘れていましたが、窓の外に鉢植を並べて庭を拵えるという、あのことを彼は云ってるのです。
「私はとうとう先生の説に降参しました。実際面白い考え方ですね。住宅は寝室と食堂だけで、街路がみな廊下の延長……愉快です。」
 それを聞くと、私の方が一寸面喰いました。
「へえー、そんなつまらないことが……。」
「つまらなくはありません。私はそれを友人に云いふらして歩いたんです。……東京の学生は愉快ですね。……私は東京の街路を飛び廻ってやるつもりです。……だけど、変ですね……どうも……。」
 彼は何かしら胸の中がもやもやしてるらしく、それをはっきり口に出せないのがなお焦れったいらしく、眉根に皺を寄せて考えこみました。私はその顔を覗き込んで尋ねました。
「どうしてまたそんな風に、心機一転したんだい。」
「え、心機一転って……。
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