」
それから暫くして、彼は真白な卓布に眼を据えて云いました。
「やはりあの庭のお影です。窓の外に一杯植木を並べて、私は一生懸命にその枝振をなおしたり水をやったり、木の間に頭をつきこんで、半日もぼんやりしてることがありました。すると、その窓の下に、煉瓦の塀越しに、よその家の室が見えるんです。薄暗い汚い宿でしたが、朝から晩まで、四十ぐらいのお上さんが、たった一人で縫物をしています。所が晩になると、薄汚い電燈が一つついて、古い不恰好な洋服を着た主人が戻って来ますし、その家に不似合なハイカラな娘が戻って来ますし、十四五の男の子も戻って来ます。そして皆で飯を食って、寝てしまうんです。それを二階の窓から見てると、実に変な気持がします。何だかこう、何もかもつまらないような……何もかも淋しいような……何もかも馬鹿げてるような……何もかも滑稽なような……実際変梃です。そして私があんまり覗いてたせいか、向うに顔を見知られてしまって、或る朝、植木の影から顔を出したとたんに、こちらを見上げてる顔とぶっつかって、ひょいとお辞儀をしてしまったんです。」
「誰とだい。」
「娘とです。」
そして彼は不意に浅黒い顔を赤らめました。
「なあんだい、それで恋でもしたというのかい。」
「いいえ恋はしません。」と彼は真面目くさっているんです。
「じゃあどうしたんだい。」
「どうもしません。」
「だってそれっきりというのは可笑しいね。」
彼は何か気に喰わぬことでもあるらしく、むっつりと口を噤んでしまいました。で私はそれ以上追求するのを止めて、他の話を――芝居のことなんかを――初めましたが、彼は余り気乗りがしないらしく、上の空で返辞をしながらもじもじしています。引留めたのが悪かったのかなと私は気がついて、暫くして尋ねてみました。
「つい話しこんでしまって……。君には連があるんだろう。」
「いえ……なに、いいんです。」
彼は一寸狼狽した風でした。で私はすぐに勘定を払って、彼と一緒に廊下へ出て、そこで左右に別れました。
「そのうちゆっくり遊びに来給いよ。」
「ええ、上ります。」
彼は首を垂れてすたすた歩いてゆきました。
私は仕方なしに、途中から座席につきましたが、芝居が更に面白くありませんでした。芝居よりも彼のことが深く頭に刻まれていました。それで幕間になって、方々を探し廻りましたが見付かりません。次の幕間も同じことでした。そのうちに、芝居をそっちのけにして彼を探し廻ってる自分自身が、妙に白けきった馬鹿馬鹿しさで頭に映ってきましたので、私はふいに一人で笑い出して、後の幕はそのままに劇場から飛び出して、家に帰ってゆきました。
妻は私の話を聞いて、信じかねるようなまた心配そうな眼付をしました。
母上
丁度その頃です、平田伍三郎の伯父から手紙が来ましたのは。――伍三郎は此頃どんな風にしてるか知らしてほしい、夏の初めから毎月七八十円の金を送ってるのに、なお足りないと見えて、よそに嫁いってる姉から五十円六十円と送って貰ってることが分った、余り金を使うようで心配だから、よろしく御監督を頼む……というような手紙でした。
劇場で逢ったこととその手紙とで、最近の平田伍三郎の大体の様子は分りました。そして私は可なり当惑しました。
手紙には監督をたのむなどとありますが、よそに下宿してる男を監督することなんか、東京ではとても出来るものではありません。第一その男がどんなことをしているかさえ、なかなかはっきりは分らないんです。田舎では誰が何をしたかということは、すぐに皆の人に知れてしまいますが、東京ではそうはゆきません。余り沢山人間がいて、そして互に見ず知らずの他人です。その人間の渦の中に身を隠せば、容易には人に目付かりません。
私は手紙を前にして考えましたが、改まって彼を訪ねていったり呼寄せたりして角立てるのは却って悪いから、こんど彼がやって来た時にゆっくり逢って、彼の考えなり行いなりをはっきり聞いた上で、何とか方法を講じようと思いました。
そして彼を待ち受けましたが、彼はなかなかやって来ませんでした。がとうとう、劇場で逢った時から十五日ばかりたって、日曜日の午後、彼はひょっくり姿を見せた。
母上
少し冷かになりかかったのが急に逆戻りして、蒸し蒸しする生温かな南風が吹いて、頭がぼっとするような日でした。妻と女中とは子供達を連れて動物園へ行って、私一人で留守をしていました。その午後三時頃、平田伍三郎は大変な元気ではいって来ました。けれど何だか顔色が悪く、肩ではあはあ息をしていました。
「どうしたんだい、加減でも悪いのか。」と私は尋ねました。
「いえ何でもありません。急いでやって来たものですから……。」
そして彼は額の汗を拭きながら、ふいにくすりと笑いました。
「何か面白い
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