ことでもありそうだね。」
「ええ、そりゃあ滑稽なんです。先生を呼びに来ようかと思ったんですが、とても来ては下さるまいと思い返して、私一人で見ていました。さっき済んだばかりです。」
「どうしたというんだい。」
「実は私が一寸へまをやっちゃったんです。」と話し出しながら彼は善良そうな眼をくるくるさせました。「この前お話しましたあの……私の室の窓から見下せる隣りの家ですね、あすこの娘に、私が横着をきめこんで、急に用事が出来た時には紙片に書きつけて投げこんでいたのです。それを親父に見つかりましてね、ひどく怒ったそうです。逓信省に勤めてる下っぱの腰弁で、まるで頑固一点張りの男なんです。私が窓から紙片を投ったのを見付けて、娘の方はそっちのけにして、私に対して向っ腹を立てたらしいんです。そして今日、何処からか広いトタン板を買って来て、自分で軒の庇のつぎ足しを初めてるじゃありませんか。私の窓から見えないようにするつもりらしいんです。空樽の上に踏台を重ねて、そのぐらぐらするやつに乗っかって、襯衣一枚で、一生懸命にかちんかちんやっています。頭の頂辺の禿げかかった所に日があたって、薄い毛の間からぴかぴか光っていて、その頭一面にもーっと湯気を立てて、しっきりなしに水洟《みずばな》をすすってるんです。屹度私から覗かれてるとでも思って、猶更いきりたったのでしょう。大きなトタン板をあちらこちらに持て余したり、つっかい棒をしたり、釘を打ったり、見ていると、滑稽を通りこして悲惨な気がしました。それでもどうやら庇のつぎ足しが出来上って、向うの室もその前の一寸した地面も、すっかり隠れてしまいました。」
彼はまた可笑しそうにくすくす笑い出しています。
私は一寸呆気にとられました。そんなことをぺらぺら饒舌る彼の気持が分りませんでした。そして余り彼の顔を見つめてたせいか、彼は一寸白けた顔付をして云いました。
「だって……先生だって、見れば屹度お笑いなさるに違いありません。」
そこで私は、彼に先をこされて立ち直ることの出来ないもどかしさから、いきなり問題にふれていきました。
「そりゃあ可笑しいかも知れないが、然し君、冗談じゃないよ、本当に。」
そして私は立上って、彼の伯父の手紙を持って来ました。
「これを読んでみ給い。」
彼は無雑作にそれを披いて、近眼の人が物を見るような工合に、眉根に皺を寄せて読み通しました。
「大丈夫ですよ、先生。」と彼は手紙を巻き納めながら私の方を見ました。「無駄使いなんかちっともしてやしないんです。着物を拵えたり書物を買ったりしたんです。一々書き出しても宜しいんです。」
「然し余り国の人達に心配をかけるのはよくないね。……それに君は、その隣りの娘と始終落ち合ってるんだろう。」
「だってほんの少し一緒に歩くだけなんです。店がひけて彼女が帰る時に、銀座通りなんかを少し歩くだけなんです。物を食べにはいることなんか滅多にありません。大抵腹をぺこぺこにして戻って来るんです。大変やかましやの親父で、帰りが余り後れると、もう堕落しきったもののようにがみがみ云うんだそうです。だから私共は一緒に一寸散歩するだけにしています。こないだのように一緒に芝居を見にいったことなんか、まだ一度きりなんです。」
「そして一体君達の間の関係はどうなってるんだい。」
「関係って何にもありゃあしません。それだけのことなんです。」
「だって可笑しいじゃないか。若い男と女と外で始終逢っていて……。そんなら聞くが、君はその女と結婚する気があるのかね。」
「結婚なんか真平ですよ、あんな女と。向うでも嫌でしょう。」
「へえー、どうも僕にははっきり分らないが……。」
「だって先生の方が可笑しいじゃありませんか。一人で歩くより二人で歩いた方が面白いから、そうしてるだけなんです。」
彼の答えは如何にも平明で、何等疚しいところもなさそうです。それかといって私にはやはり腑に落ちないんです。そして変な問答をくり返してるうちに、家の者が帰ってきました。
「まあー、平田さん……。」
そう云って立ったまま眼を見張ってる妻の前に、彼は頭をかきながら極り悪そうにお辞儀をしました。次には子供達が左右から彼に寄っていって、彼を奪い取ってしまいました。
で話はそのままになって、彼は夕食の馳走になってゆくことになりました。
妻の心尽しで、餉台の上には酒の銚子まで並んでいました。そして一緒に酒を飲み食事をしながら、私と妻とはごく穏かな言葉で、そういう場合に誰でも普通に云いそうなことを――故郷の人達に心配さしてはいけないとか、余り物を買うものではないとか、若い女との交際は初め何でもないつもりでも危険が伴い易いとか、そんな風なことをぽつりぽつり云ったのです。それを彼はただにこにこして心安そうに聞いていました。それ
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