から食事の終り頃になって、彼はふいに云い出しました。
「一週間ばかり、一寸国へ帰って来ようかとも思いますが……。」
「え……そうだね、帰ってお母さんを安心さしてあげるのもいいだろうが、然し……、」と私は少し気の毒になって云いました、「それにも及ぶまいよ、僕からいいように云ってやっとくから。」
「いいえ、そんなことじゃないんですが……。」
 云いかけて彼は口を噤んでしまいました。
 それから、食事がすむと、彼はすぐに子供達の方へいって、羽子をつこうと云い出しました。子供達は大喜びです。母親にせがんで、玩具箱の底から古い羽子板と羽子とを出して貰って、皆で向うの座敷に馳けてゆきました。そして可なり長い間、子供達の笑い声に交って、かちん……かちん……という羽子の音が続きました。
 私と妻とは微笑の眼を見合したものです。
 所が、だいぶたってから、彼は座敷から出て来て、すぐ帰ると云って慌しく辞し去りました。その時彼が眼に一杯涙をためてたようだと、妻は後で私に云いました。私はそれに気付きませんでしたけれど、取り急いで帰ってゆく彼の姿は何だか普通でなかったようです。
 彼が帰っていってから、私は変にぼんやりしてしまいました。いくら考えても彼の正体が掴めませんでした。そして彼の伯父への返事もその晩は書かずにしまいました。
 母上
 その翌々日のことです。彼の下宿から私の家へ、彼が病気危篤だと知らしてきましたのは。私が不在だったものですから、妻が急いで馳けつけてゆくと、彼は脚気衝心でもうどうにもならない状態に陥っていました。
 彼がちょいちょい意識の明瞭な折に、断片的に云った言葉をよせ集めて、想像してみますと、彼は九月頃から時々足部の麻痺を感じていたらしいんです。でも脚気だということは誰にも云わず医者にも診せないで、例の徒歩主義を押し通したのです。それから、前々日私の家に来て座敷で羽子をついてるうちに、変に淋しくなって、帰りにカフェーで強い洋酒をしたたか飲んで、その途中一寸倒れかかったそうです。それでもどうやら下宿まで辿りついて、一晩寝ていると、翌日は気分がいいので、方々出て歩いて――何だか出て歩かずにはいられなかったそうです――その夜中から、ひどい衝心に襲われたのです。
 妻が行った時は、彼は頻繁に襲ってくる呼吸困難に、うんうん呻ってたそうです。それなのに、胸部に氷嚢もあててないんです。その朝やって来た医者は、静に寝ていればなおるだろうと云っていったそうです。でも余りお苦しそうだからお知らせしました、とお上さんは平気でいたそうです。妻は余りのことにあきれ返ったのです。そして一人で騒ぎ立てました。氷や氷嚢を買って来て貰ったり、知り合いの医学士に来て貰ったり、看護婦をたのんで酸素吸入をさしたり、出来るだけのことはしたそうですが、もう手後れだったのです。電話を聞いて私がやっていった時には、彼は胸に波打たして※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き苦しんでいました。私はすぐに彼の伯父へ電報をうちました。然しそれも間に合わなくなって、彼はその夜中に冷くなってしまいました。
 この前後のことは、彼の伯父と母親とから詳しく御聞き及びだと思いますから、茲に再びくり返すのを止しましょう。そして最後に、私の胸の中だけに秘めてることを御話し致しましょう。
 母上
 私がその翌朝早くやって行きました時、妻と看護婦とは死体の側にぼんやりしていました。私は死体の枕頭に端坐して、顔の白布を一寸取って、最後の別れを告げました。額や頬の皮膚が妙に蒼脹れしてるのに、眼だけが深く落ち凹んでいて、土色の唇がかさかさに皺寄っていました。私はまたそっと白布をかけました。
「昨夜夜中にふいに起き上って、国へ帰るんだと云って立上ろうとなさるんです。それを二人でようよう寝かしつけましたが、もう全く夢中でした。国へ帰りたいと譫言《うわごと》のように云い続けて、それからもう舌が廻らなくなって、二三時間後にいけなくなりました。」
 夢をでもみてるような我を忘れた調子で、妻はそんなことを云いました。
 西向きの古ぼけた六畳で、室の中が何だか薄暗く陰気でした。浅い床の間の書棚には、むずかしい哲学の書物と卑俗な小説の書物とが、変な対照をなしてぎっしり並んでいました。窓の障子を開くと、日の光を遮るほど鬱蒼と、大小種々の鉢植が並んでいます。更にその間から覗くと、眼の下に煉瓦塀があって、塀の外には低い古びた平屋根があり、その軒へ不細工につぎ足した新らしいトタン板が、露に濡れてきらきらと異様に光っています。
 私はそこの窓際に腰掛けて、一寸言葉で云い現わせない気持に沈み込みました。平田伍三郎の儚い一生に対して何だか自分に責任があるような気がすると共に、誰もかもやさしくかき抱きたい気になったのです。そして
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