ふと、彼の死をトタン庇の家の娘に知らしてやらなければならないと考えました。
そして私は、彼女の家へ公然と行くわけにもゆかないものですから、丸ビルとか三越とかそういった所の店員らしい彼女が出かけそうな時刻を見計って、往来で待ち受けたのです。
下宿屋の横の路次をはいって、大凡の見当をつけて表札を見ると、板倉寓として入口に御仕立物と小さな札の出てる家がありました。私はそれを見定めてから、表の通りに出て、その辺をぶらぶら歩き廻りながら、彼女が出て来るのを待受けました。
母上
その時、そんなことをしてる私を知ってる者が見たら、屹度笑ったに違いありません。あなたもお笑いなさるでしょう。然し私はごく真面目だったのです。
私の見当は外れませんでした。その小さな路次から、ハイカラな大きい束髪に結って、メリンスの派手な着物をつけ、フェルトの草履をはいた若い女が、手に一寸した何かの包みを持って、急ぎ足に出て来ました。
私はその方へつかつかと寄っていって、帽子に片手をかけました。彼女は立止りました。
「失礼ですが、あなたは板倉さんと仰言る方ではありませんか。」
切れの長い眼の中に、小さな瞳がくるりと動いて、厚ぼったい唇が一寸引緊ったようでした。
「ええ。」と聞えるか聞えないかの低い返辞です。
「平田伍三郎のことで一寸お知らせしたいことがあったものですから……。」
心持ち彼女の顔は赤らんだかと思うと、もう次の瞬間には晴れ晴れとなっていました。そして元気のいい張りのある声が響きました。
「水島先生でいらっしゃいますんでしょう。」
「えっ。」と今度は私が喫驚した低い声で答えました。
それから無言のうちに五六歩歩みだして、私は眼を伏せながら云い出しました。
「実は昨夜、平田君が脚気衝心で突然亡くなったんです。」
「え、やっぱり……脚気衝心で……。」
彼女が立止ったのに驚いて振向くと、彼女は舞台に立った女優のような姿で真直を見つめたまま、涙を一杯含んだ眼をぱちりと瞬きました。それからすたすたと歩き出しました。
「それで私は、あなたにもお知らせしようと思いまして……。」
それから私達は一町ばかり無言で歩きました。すると彼女は突然私に云いました。
「あたし御香奠を差上げたいんですけれど、父がやかましいものですから……先生から取次いで頂けませんでしょうか。」
私はふいにつき飛ばされたような気がしました。それは余りに期待外れの言葉でした。で心を立て直すと、憤慨の調子で云ってやりました。
「香奠なんかの必要はありません。平田伍三郎が死んだということを、私はあなたにお伝えするだけです。」
彼女は大きな上目がちに私の顔を見上げました。その眼には愁いの影なんかはなくて、媚びを含んでるとさえ思われたのです。
「ええ、分りましたわ。有難うございました。」
そしてそれきりで私達は、一寸軽いお辞儀をして別れました。
私は暫くの間ぼんやり往来の真中に佇んでいました。気がついてみると、学生や労働者や勤人なんかが、実に沢山元気よく忙しそうに通っていました。爽かな朝日が街路に流れて、靄が薄すらと消えかかっています。その中で私は、彼女の印象を飛び飛びに思い浮べて、何だか急に未知の世界を覗いたような晴々しい気持になりました。
そうして、私が平田伍三郎の霊前へ差出した香奠の中には、私がひそかに彼女の分としておいた十円だけ、余計に包まれていたのです。
母上
私は今何だか新らしい気持で生きてゆきたい気がしています。国許から東京へ出てくる青年があったら、どしどし云って寄来して下さい。世話は出来ませんが、親しく交際したいと思っています。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「時流」
1925(大正14)年3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全12ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング