くとは云わないで、やがてはこの借家を買い取るつもりだと云い出した。それには母も賛成だった。可なり古い家ではあったが、普請も間取りも相当によかったし、表にも裏にも地面の余裕があって、庭もわりに広かった。そして自分の家を一軒所有するということが、何よりも母の望んでいることだった。
 そういう風にして、公孫樹は父の「足の皮の養分」を吸って、次第に大きくなっていった。
 ところが、僕が高等学校の折、その公孫樹は隣家の火災のために、半焼になってしまった。
 十月初めの夜中のことだった。「火事だよ、火事だよ、」という母の声に呼び覚されて、僕は驚いて飛び起きた。雨戸が一枚開かれていて、そこから真赤な明るみがさし込んでいた。その雨戸の開かれた真中に、くっきりと一人の男の立姿が浮出していた。それが父だった。
「慌てるな、大丈夫だから。」と父は怒鳴るように云った。「着物を着てしまうんだ。」
 そこで僕達は皆着物を着た。そして父の指図で、母や弟や妹や女中達は大事な物の荷造りにかかった。
「雨戸を明け放しちゃいけない。電気をつけるんだ。俺が相図をするまで、荷物は運び出すな。」
 何で雨戸を開け放すなと父が云ったのか、僕には分らない。がその時まで、電燈のことは全く忘られていた。それくらい、戸の隙間や窓から赤々とした光がさし込んで、室の中はぼーと明るかった。
 父は一通り皆に云いつけておいて、台所の方へ飛んでいった。そして、風呂桶に使うゴムのホースを水道の口にあてがって、その先を掴んで外に飛び出した。僕もその後について外に出た。ぱっと明るいものが眼にぶつかった。室の中から見た真赤な光ではなく、電光のような感じのする光で、それがあたりを一面に照らしていた。瞬間に、ひどい物音がした。隣家の軒にひらひらと焔が伝っていた。
 父はホースの先を小さくしぼりながら、水を家の軒先にかけていた。然し、隣家の火はひらひらと蛇のように這ってるだけで、火の粉も飛んでこなければ、熱くもなかった。それに隣家との間には、可なりの空間と公孫樹の茂みとが狭っていて、その厚ぼったい葉の無数に重なり合ってるのが、綺麗に浮出して見えていた。
「お前は荷造りの手伝をして来い。まだ荷物を出しちゃいけないぞ。」
 父にそう云われて、僕はまた家の中に駆け込んだ。家の中はごった返していた。大事な物も何も見分けがつかなかった。僕は皆と一緒に手当次第のものを持って、あちこち駆け廻った。
 長い間のようでもあれば、短い間のようでもあった。すさまじい物音がしたので、皆あっと息をつめた。そこへ父がやって来た。
「家は大丈夫、騒がないでいい。」
 それでも僕は気になって、台所の方へ飛んで行った。外に出てみると、隣家が半ば焼け落ちたところだった。濛々と渦巻く火の焔が立って、一丈ばかり上から先は、真黒な中に無数の火の粉となっていた。それがみな家と反対の向う側になびいていた。ぱらぱらと雨の降るような気配に気がつくと、あたり一面に水だった。蒸汽ポンプが来て、隣家は四方から水を浴びていた。その余沫が頻に飛んで来るのを覚えると同時に、顔一杯に火のほてりを感じた。そしてあたり近所の騒ぎに、耳がごーっと遠鳴りするようだった。垣根も半ば壊されていて、消防夫が駆け廻っていた。
 僕はまた家の中にとって返して、父と同じように、「大丈夫だ、大丈夫だ、」とくり返した。それから皆一緒になってまた裏口から覗きに来た。隣家の火勢は強かったが、危険の度はへっていた。皆震えながらぼんやりと立っていた。
 火事は隣家を焼いただけで済んだ。そして僕の家は、垣根を壊されたくらいの損害だったが、公孫樹は隣家に近く聳え立っていたので、火気と火の粉とを受けて、憐れな姿になっていた。まだ青々としていた葉は、小さく焦げ縮れてしまって、殊に隣家に面した方は、可なりの枝まで焼け枯れていた。そして幹の半面には、一間ばかりの長さに大きな傷を負っていた。とても助かりそうになかった。
 然し父は、なお公孫樹を見捨てなかった。植木屋を呼び寄せて、すっかり手当をしてやった。
「この木のために家は救われたのだ。」と父は云った。
 実際その公孫樹の茂みがなかったら、家はもっと直接に火気を受けて、或は大事に至ったかも知れない。父ばかりでなく皆の者も、一種の感謝の念を覚えたのだった。
 そして公孫樹は、枝をすっかり切り落され、全部藁包みにされて、庭の隅に淋しくぽつりと立っていた。植木屋も助かるかどうか分らないと云っていた。でも父は確信があるらしく、垣根の修繕の時にも、公孫樹に障らないようにと頼んでいた。
 その父自身がまた、当時は誰も気付かなかったが、頭をひどく柱にぶっつけて、それから一種の神経衰弱みたいになっていた。あれほど沈着だった父が、どうして頭を打っつけたのか、皆の者は不審に思っ
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