たものか分らないが、小さい時にその落葉を拾って遊んだという記憶はないし、その代り、末の妹なんかがそうして遊んでた記憶はあるので、多分僕の生れる頃に小さいのが植えられたのだろう。いや、僕が生れるより一二年前に植えられたのに違いない。なぜなら……。
 だが、それは先の話だ。公孫樹というものは早く大きくなるものだね。もう立派な大木になっている。
 その庭の隅の公孫樹を、父は大変大事にしていた。なぜだか僕には初め分らなかった。今でもよくは分っていないが……。
 父には妙な癖があった。足の蹠の胼胝《たこ》を丹念に鋏で切り取るのだ。月に一二回は必ず切り取らなければ承知しなかった。胼胝といっても、踵やなんかに出来るのではなくて、小指の根本の蹠に、五十銭銀貨くらいの大きさに、まんまるく出来るのだった。切り取ってもすぐに固くなる、固くなると歩くのに痛い、痛いよりも気持が悪い、それで月に一二回は鋏で切ってとるのだった。
 大抵日曜日やなんか、比較的朝遅く起き上る日、飯を食って新聞などを見てしまうと、それから、朝日のさしてる座敷の縁側で、ゆっくりと足の胼胝を切りにかかった。裁縫に使う握鋏で、少しずつ固い皮を切り取って、柔かくすべすべになるまでは、いつまでも気長にやっていた。
 厳めしい長い口髭や荒い髪の毛などが、朝日の光を受けて赤茶けて見えていて、大きな額の下に、太い眉根をきっと寄せ、片足を投げ出して身体を変な風にくねらせ、真面目に一心に足の皮を切っている、その姿を見ると、僕は滑稽な気がしたり悲惨な気がしたりした。そういう父は、いつも平素より年が老けて見えた。
 時によると、父は縁側に長く寝転んで、母や女中達に胼胝を切らせることもあった。そんな時は殊に気むずかしかった。手の指先で触ってみて、柔かくすべすべと平らになるまでは、どうしても承知しなかった。
「自分で切っても平らにゆく。お前達に出来ないわけはない。」
 そう云って、気に入るようにならなければ許さなかった。そして両足とも済んでしまうと、立上って一つ大きく伸びをして、愉快そうに云った。「ああ、これでさっぱりした。」
 父にとっては、蹠の胼胝を切り取ることは、髪を刈ったり入浴したりすることなんかよりも、もっと精神を爽快になすかのようだった。
 それにまた、切り取る皮は散らさないで、下に敷いた新聞紙の中にまとめなければならないので、それが切る者には一苦労だった。固いこちこちの皮を握鋏で切るのだから、どうしても遠くへ飛び易かった。然し皮の一片でも遠くに飛び散ると、それを必ず拾わせられた。
「たとい足の皮でも、やはり身体の一部分だ、土足に踏み蹂られるところに打捨るのは不快だ。」
 それが父の理屈だった。然しそれ以上にもっと本当の理由があったらしい。
 父はどこからか、植物には人体が最上の肥料であると、変なことを聞いていたものと見える。戦争後の満洲の野がどうだとか、昔火葬場だった跡の野原がどうだとか、そんなことを話してきかしたことがある。そのためだかどうだか分らないが、足の胼胝の皮は必ずまとめて、庭の隅の大事な公孫樹の根本に埋めることになっていた。
 公孫樹は隣家の軒に近いため、半日しか日が当らなかったが、非常な勢で伸び上って、毎年枝を切り落さなければならなかった。勿論、父が足の皮を公孫樹の根本に埋める癖は、いつ頃から初ったのか僕は覚えていない。然し父が公孫樹の根本に立って、すくすくとした幹を見上げながら、快心の笑みを洩してる姿は、今でもはっきり眼の中に残っている。
「俺の足の皮の養物を吸って、この伸び上った勢を見てごらん。」
 そう云って父はよく高らかに笑った。
 けれど実際、足の皮ってそれはいくらの量でもなかった。五十銭銀貨大の胼胝を薄く切り取ったものだから、円めても小指の先ほどしかなかった。月に一二回として一年分まとめても、ごく僅かな量にすぎなかった。
「あんな少しばかりのもので……。」と云って母は嗤った。
 然し父は、人体の肥料価を主張して止まなかった。そして他に何の肥料もやらなかった。
「だけど、あなた、」と母は別な方面から父を揶揄した、「そんなに公孫樹を大きくしてどうなさるの。銀杏《ぎんなん》がなるまでにはなかなかでしょうし、それに、もし引越しでもするようになったら……。」
「その時は持ってゆくさ。俺が植えた木だから構やしない。……銀杏なんかどうだっていいんだ。兎に角、ああ威勢よく伸び上ってるところは愉快じゃないか。」と父は答えた。
 その公孫樹が果して雌公孫樹かどうかは、父にも分ってはいなかったらしい。然し父の云う通り、年毎にずんずん大きくなってゆくのは、見てても気持がよかった。移転する折には持ってゆくなどということは、とても出来そうにないくらい大きくなっていた。そして後には父も、持ってゆ
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