たし、父自身でも不思議だと云っていた。がそのために頭が悪くなって、冬の間中ぶらぶらしていた。
翌年の春、或る晩僕は読書に疲れて、室の窓からぼんやり外を眺めてみた。淡い月の光が、空に浮んでる雲の肌に流れて、静かな爽かな晩だった。で一寸庭にでも出たくなって、座敷の縁側の方へやってゆくと、そこの雨戸が一枚半分ばかり開いていた。不思議に思って、そっと覗いて見ると、月の光がぼんやり落ちている庭の植込の向うの、藁包みの公孫樹の根本に、老人がしょんぼり立っている。それがよく見ると父だった。ひどく老けた姿で、背も少し前屈みになっていた。するうちに、父は着物の前をはだけた様子で、いきなり公孫樹の根本にしゃーと小便をひっかけ始めた。僕は呆気《あっけ》にとられたが、何だか見て悪いものを見たような気がして、こそこそ引返していった。
足の皮以外に一切肥料を与えない父が、而も土足に踏まれるのは不快だという足の皮を埋めているところに、いくら自分のものだとは云え、小便をひっかけてるのは理に合わないことだった。で僕はどうも腑に落ちかねて、それから注意してみると、父はやはり時々、人の目につかないように、公孫樹に小便をやってるのだった。それがはっきり分ると、僕は理屈をぬきにして、一人でに微笑が催されたのである。その小便の利目かどうか知らないが、五月の中頃に、不思議なことには、とても駄目だと見えていた公孫樹の枝から、可愛いい若芽が萠え出してきた。
「おい来てごらん。どうだ、公孫樹の芽がふいたぞ。」
父は何度もそんなことをくり返して、僕達に新芽を見させた。新芽が大きくなり枝が伸び初めると、毎朝のように誰かをその根本に呼び寄せた。そして如何にも晴れ晴れとした顔をしていた。僕は小便のことを思って一人で可笑しかった。余り可笑しいので、つい母へ告口してしまった。母は苦笑したが、次には小言をもち込んだ。
「いくら何だって、汚いじゃありませんか。庭の中ですもの。」
それには父も閉口したらしかった。小便の効能で生き返ったのだと冗談を云いながらも、もう生き返った以上は……と小便を止めてしまったらしかった。足の皮ばかりの肥料となった。
その頃から、父は元のように元気になり、頭もよくなったとみえて、前に倍して働き初めた。そして二年後には、本当に家を買い取ってしまった。
その晩は一家中の喜びだった。僕達まで何だか嬉しかった。母は眼に涙をためていた。父はいつまでも酒を飲んでいた。
「少し古いけれど、いつでも建て直せるんだからね、……それにもう長年住み馴れたのだから、元々から自分の家のようなものだ。だから俺は、あの通り公孫樹を大きくして根を張らせたのだ。」
そんなことを父は感慨深そうに云って、やがては地所も買いたいなどと云っていた。
然し父のそういう元気には……というより、父の頭には、火事の時以来ひびがはいっていたのかも知れなかった。三年後に、脳溢血でふいに死んでしまったのである。遺言を聞くひまもなく、医者も間に合わないくらいだった。入浴をしてから、二階の書斎で暫く何かしているうちに、ふいにぶっ倒れたきり、もう再び意識を回復しなかった。
父の死後、僕は長男として家督を継いで、いろんなものを整理し初めた。そして、古い手文庫の抽出をかき廻してると、その底に意外なものを見出した。
それは六つ折りの奉書紙で、折り畳んだ真中に公樹と二字認めてあり、表の上に、何年何月何日生としるしてあった。みな父の筆蹟だった。よく調べてみると、僕達兄弟のと同じ形式の七夜の命名式の紙で、その生年月日は僕より一年三ヶ月前だった。
初め僕はただ意外な驚きだけを感じたが、やがて変な胸苦しさを覚えてきた。いろんなことが綜合されて、一つの空想にまとまってきたのである。
僕はその奉書の紙を秘密にしまいこんで、いろいろ事実の調べにかかった。然しはっきりしたことは何も分らなかった。ただ断片的な事実を列挙すると、父は初め国から出て来て、祖母と二人で暮していた。それから、国許の従妹と結婚した。その結婚は僕が生れる一年半ばかり前のことだった。次に、その公樹という名前と、父が生前大事にしていた公孫樹、それ以外に何もなかった。然しそれだけのことから、僕の頭に一つの小説が自然と出来上っていった。馬鹿げた空想かも知れないが、僕の場合に立ったら、誰でもそうより外に考えようはないだろうと思う。
父は祖母と二人で暮している時、或る女と関係した……というより、恋をしたと云った方がいい。相手の女は、恐らく一時手伝いの女か女中か或は看護婦か、何でも家に親しく出入りした女に違いない。そう云えば、祖母がまだ生きてた頃、家にしばしばやって来て、祖母と話しこんでいった女がある。皆からお千代さんと呼ばれていた。祖母が亡くなってからはぱったり来なくな
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング