った。その、顔の細長いどこかきさくな性質の、そして余り上品でないみなりの「お千代さん」が、相手の女だったかも知れない。その女が遂に妊娠して子を産んだ。ところが父の田舎の家は、古風な堅固しい家風だったので、前々から従妹と婚約がしてあった。そこで父はいろんな義理にからまって、従妹と結婚するようになった。そして女とその子供とをよそへやってしまった。戸籍も初めからはいってはいなかった。その子供が即ち公樹だ。結果は初めから分っていたので、父は女と共にセンチメンタルな感情に駆られて、庭の隅に公孫樹なんかを植えて、心の中を誓い合った。そしていつまでも、あんな風に公孫樹を大事にしていたに違いない。
 人の頭は何て馬鹿げた想像を逞うするものだろう。然し僕のその想像は、恐らく事実に近いものだと思うのだ。
 僕は自分の想像に固執していった。そしていつしか頭の中では、それが動かし難い事実となってしまった。とは云え誰からもはっきり聞いたのではない。まさか母に尋ねるわけにもゆかないし、他に事実を知っていそうな者はいない。その上僕は、自分の異母兄たる公樹のことを考えていると、妙に憂欝な気分にとざされていった。何かしら漠然と不安なのだ。事実を明るみに曝け出すよりは、一人で空想に耽ってる方が気安かった。ただ一度、「お千代さん」のことをそれとなく母に尋ねてみたが、昔祖母が世話になった人だというきりで、母は本当に何も知らないらしく、今は音信不通で居所も分らないと、顔色一つ動かさずに答えたのだった。
 そして僕は、他に探る手掛もない異母兄のことや、父のロマンスのことなどを、いろいろ想像しながら、父があの公孫樹に、足の皮とそれから一時小便とをやっていたことに思い及んで、何とも云えない暗い気分に落ち込んでいった。
 固よりそれは、父がしそうな事柄ではあった。どこか呑気で脱俗的な而も実利的な父の性格としては、由緒ある公孫樹に足の皮を与えるくらいは何でもないことで、場合によっては小便を与えるのも不思議ではなかった。然し、若い頃のロマンスの唯一の名残として、感情的に深く拘泥していたに違いないあの公孫樹へ、他の肥料は一切与えないで足の皮ばかり与えていたということが、そして遂にあの古い家まで買ってしまったということが、僕の感情にはどうしてもぴたりとこなかった。それは何かしら重苦しい陰欝な事柄だった。丁度蛇の死骸でも見るような気がする事柄だった。
 僕はその憂欝な気分にとざされて、長い間苦しんだ。父のロマンスを否定してかかろうとしたり、反抗的に凡てを母の前にぶちまけてみようとしたり、公孫樹を切倒そうかと考えたり、一切を忘れようとしたり、いろんな風に頭を向け変えてみたが、やはり気持は晴れ晴れとしなかった。先刻僕はあの大学の中で、砂利の煮られることを口では云っていたが、心ではアスファルトの方を見ていた。あの真黒な重いどんよりとしたやつが、ぐらぐら煮立ってるのを見ていると、当時の気持がふと蘇ってきたのだ。全く、釜の中に煮立ってるアスファルトを見るのと同じ気持だった。
 所が不思議なものだ。学校から世の中に出て、厳めしいビルディングの中の狭苦しい室なんかに、毎日出勤するようになり、貧しい家庭生活にいじめつけられたり、社会の裏面を覗き見たりするようになると、父の気持が――美しいロマンスの潜んでる公孫樹に、足の皮や小便なんかをやって、伸びよ伸びよと心で叫んでいた父の気持が、ぴたりと胸に来るようになった。はっきり説明することは出来ないが、何だかこうどす黒い力強い気がするのだ。昔の日本風の建築と今の洋式の建築との違いだ。もう今では、香りのいい檜材なんかを鉋で削ってばかりはいられない。そういうことも必要だが、それ以下のことが――趣味的に以下のことが、更に必要なんだ。
 そして僕は、これからあの公孫樹に小便をひっかけてやろうかとさえ思う。父の意志を受け継いで、家敷の地所をも買い取りたいとさえ思っている。とてもそんな金は及びもつかないが、それが出来たら愉快だろう。家屋なんかどうだっていい。父が家屋だけを買ったのは間違いだ。家屋は他人の所有でもいいから、地所だけは所有したい気がする。地面から公孫樹はつっ立ってるのだ。
 勿論これは比喩的な話で、僕は実際そんなに所有慾はない。ただ僕には父の感情がぴったり胸に来るようになった、というそれだけのことなんだ。

「僕にもその気持は分るよ。」と私は吉住が話し終って暫くして云った。
「本当に分るのか。」と彼は不審そうに見返してきた。
「分るような気がするよ。」
「ふむ。」
 彼は曖昧に口籠ったが、眼に涙をためていた。
「だが、」と私は敢て尋ねてみた、「その父の話というのは、本当のことなのか。作り話か、それとも君自身の……。」
「いや本当に父の話だ。……こんどその公孫樹
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