豊島与志雄

 五月末の或る晴れやかな日の午後四時頃、私は旧友N君と一緒に、帝国大学の中の大きな池の南側にある、小高いテラースの上の、藤棚の下の石のベンチに腰掛けていた。池の周囲には新緑の茂みが、むせ返るような明るい色に盛上っていたが、低い水の面は薄すらと黒ずんで、ひょろ長い四五本の松をのせた小島が、夢のように浮んでいた。N君は吸いかけの煙草をふいに投げ捨てて、変に憂鬱な表情をしながら、次のようなことを話しだした。――

 この池を見るのは随分久しぶりだな。……こうしてじっと池の面を眺めていると、僕は変に憂鬱なお伽噺の世界に引き入れられるような気がするよ。
 え、憂鬱なお伽噺なんか僕にも似合わないって……。まあ聞き給え。僕は今まで誰にも話したことはないんだが、思い切って君にだけ、その憂鬱なお伽噺というのを聞かしてあげよう。
 学生時代のことなんだ。僕は或る気まぐれから、この池の中の鯉を一匹捕えてやろうと思い立った。何故にそして何のために捕えるのか、そんなことは僕自身にだって分らない。ただ一時の気まぐれに過ぎなかったんだね。
 そこで僕は或る晩、用意しておいた道具をマントの下に忍ばし
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