の種は、或る漠然とした一種の気掛りだった。日が没してから街道を辿っていると、どこかの暗がりから、平吉の姿が――平吉ともいえそうな小さな奴が、ひょっこり出て来て、荷馬車の下に横たわりそうな気がした。馬鹿馬鹿しいと思うと、其奴が可愛くにこにこっと笑い出しそうになった。
 この荷馬車がいけないのだ、と彼は思うこともあった。然し新らしく荷馬車を買代えるほどの金はなかった。それにまた、荷馬車のせいばかりでもなかった。
 平吉が荷馬車に轢かれた時、彼は平吉の叫び声を何一つ耳にしなかった。そのことがいつまでも忘れられなかった。果してあの場合平吉は叫び声を立てたかどうか、それは全く彼にも分らなかったが、何の叫び声も聞えず黙って轢き殺されたということが、あの生々しい傷口や痙攣などよりも、何物よりも、不思議に不気味に思われた。そしてそのことが、時や場所を択ばず、ひょいひょいと彼の頭にからみついてきた。
 平吉か何かの姿が夜の暗がりから出てくることは、彼には恐ろしくも何ともなかったが、それが音も声もなくすーっと荷馬車に轢かれる、そういう感じが、変に彼をぞーっとさした。それに対して彼はどうすることも出来なかっ
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