私は神様を心に信じました。種々な苦しみや涙の嬉しいことを私に教えて下すったのは只神様ばかりでした。」
 何だか力強い感じが彼女のうちに湧いた。只泣いてみたいような心地がして言葉に力をこめた。「苦しめるものに神様は力を与えて下さいます。」
 二人はそれきり暫く黙っていた。かすかな音が、遠いような又近いような雨の音がしとしとと静けさの輪を画いて漂うていた。そうした沈黙は重い圧迫を二人の上に置いた。
「神を信ずる人は幸福です。」と青年は低い声で云った。
 それは彼女に皮肉な響きを伝えた。そして同時に強い淋しさを誘った。
「いえ幸福では……。」彼女は云った。そして何故か自分でも知らないでくり返した。「私は幸福ではありません。」
 その時突然青年は顔を上げた。そしてじっと遠い処を見つむるような眼付をした。
「ほんとうは祈祷《いのり》をし乍ら、同時に祈らるるものの心地にならなければいけません。」
 その意味ははっきりとは彼女は分らなかった。突然何か大きいものがぶつかったような気がした。
「神様が見ていられます!」となかばは自分に云ってみた。
「神なんかどうでもいい。」と云って青年は堅く唇を結んだ。
 彼女は彼が息を殺しているのを見た。眼を一つ処にじっと定めているのを。その頬にたまらないような淋しい陰影があった。
「何かお気に障ったことを申したのでしょうか?」と彼女はそっと問うた。
「いいえ、」と彼が答えた。「どうか悪くおとりになりませんように。何でもないんですから。」
「それならいいのですけれど……。」
 沈黙が続いた。青年は何かに思い耽っているように身動きもしなかった。それを見ると、彼女の心に深い処から謎《なぞ》のような不安が上って来た。でふと立ち上って、火鉢の火を何気なく囲炉裡の中に移した。
「寒い日ですことね。」
 青年はホッと溜息をついた。
「私もう帰りましょう。」と彼は云った。「どうか悪くお思いなさらないように。」
 まだ細い雨が降り続いていた。薄すらとした靄が午後の明るみに包まれて、その間を小さい雨脚が銀色に縫っている。大きく宿屋のしるしの入った傘をさして行く青年の後姿を、彼女は憫然《ぼんやり》として見送った。
 表をしめて足を返した時、彼女は何か物につき当ったような心地がした。頭の隅で青年の運命が悲しい形を取った。それは死というほどのものではなかったけれど、然し大
前へ 次へ
全14ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング