きい懸念が其処に在った。で一寸彼女は立ち止った。そして頭を軽く振った。それから静に十字を切った。

 晴れた日が数日続いた。

 朝飯をすました婢《おんな》を兄の家へ遣《や》ってから彼女は外に出てみた。
 湖水の上には靄がかけていた。夜に醸された靄はやさしい夢を孕んで、しっとりとした重みで湖水の面と融け合っている。東の山の端を越えて清らかな太陽の光りがこの湖水を中心にした盆地の上に落ちた。靄に濡れた渚《なぎさ》の円い小石が、まだ薄すらと橙色《オレンジ》を止めた青い空を映している。そして落葉の上に白い霜が、また枯れかかった草の葉に露の玉が、朝日にきらきらと輝いている。
 彼女はこうして一人在ることの幸福を感じた。そしてそれを心のうちで神に感謝した。然しその幸福の底には淋しい空虚があった。その時彼女はふと自分の年齢《とし》を思った。が空虚は其処にあるのではないと考えた。それでは何故だろう?「そんなことは考えても分るものではない。」とこう自分に云ってみた。そしてもう一度神に感謝しなければならないと思った。
 彼女は渚へ下った。そして暫く其処に立っていた。
「お早う!」と云われたので後ろを向くと、かの青年が立っていた。
「先日は……。」と云って彼女は軽くお辞儀をした。
 青年は興奮していた。躍っている胸をじっと押えつけているような表情をした。眼を一杯に見開いている。生々《いきいき》とした色が頬に流れている。彼女は先日の午後を思い出しながら、妙な気をしてこう云った。
「晴れた朝は気持がよろしゅうござんすことね。」
「ええ、」と答えたが彼は暫くしてつけ加えた。「あなたの生活はほんとに羨ましい。」
「いいえ今のうちだけのことです。夏から紅葉にかけてはお客で忙しくって、それにまたこれからは退屈な冬がやって来ますからね。……と云って別に何も怨むのでもないのですけれど。」
「日本に修道院があって……それにお入りなさるとよかった。」
「え?」
「今日のような朝、修道院の庭はどんなにか清らかでしょう。其処に跪いてじっと神を祈る人の頬には、感謝の涙が流るるでしょう。」
 彼女はふと我知らず淋しい気持ちに包まれた。で何とも答えないで青年を見ると、彼は唇を円くしてフーッと息を吹いている。白く凍って流るる息を、遠い空をでも眺むるような眼付で眺めている。「彼にとって今凡てが清らかで楽しいのだ」と彼女
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