して。丁度月が輝いていましたので……。」
「嘘です!」と青年は急に声を立てた。「私はまだ自分の心より外に祈祷を捧げたものはありません。私が祈る時、私は甞て両手を何物かに差出したことがあるでしょうか? 私は……私は何時も自分の胸に、自分の心に向けて手を合せたばかりです。」
「あなた、自分の心に嘘を教えてはいけません。それはあなたの心を殺すでしょう。」
「嘘ではありません!……然し罪悪でもいい。私は凡てを肯定したい。罪でも、涙でも。苦しみに悲しみも、……潔い悲痛な祈りの中には、凡てが力となります。」
「あなたはまだすっかりを御存じない。まことの道は……ああ何と申したらいいか……深い処に……。」
 彼女は強く両手を握り合せた。「深い処にまことの道があります。其処まであなたの祈りを進めなさるとよろしいのです……そして神をお認めになると……」
「それは私の心もまだまだ深い底までとどいてはいないでしょう。」青年は力なく頭を垂れてこう云った。「もうこれが押しつめた底だと思っても、またその隠れた奥の方から何かの囁きがかすかに伝わることがあります。けれどすぐにその声は涙に曇ってしまいます。私はそれを決して惜しいとは思いません。……私達はあんまり深く愛を求めました。そしてあまりに多く涙を流しました。そしてあまり度々祈りました。丁度私達の恋が悲しい形を取った時、二人の上には死の垂布《たれぎぬ》がふんわりと蔽いました。その時私達はその死を見つめないで、その垂布に包まれて泣いている愛をばかり見つめたのです。自然に悲しい愛の手が合されました。そして何時とはなしに死の垂布は涙の祈祷と代ってしまっていました。私達は一層深く愛しました。そして泣きました。そして祈りました。胸に手を合して二人の心を一つの愛に祈る時、その祈りの中には永遠の姿が――神の姿がはっきり見えて来ます。……けれど其処に、生命《いのち》をずっと押しつめた処に、また別な死があるような気がするのです。それは死と云っては当らないかも知れません。この身体が煙となって心ばかりが限りなく生きるといったような気持ちの神秘的な誘惑なのです。……私達の愛がこの上もっと深くなる時、私達は愛の祈りのうちに死ぬる――いや生きるでしょう。其処に私達の神が待っています。」
 彼は斯う云い終って、祈祷のうちに両手で胸を押え乍らじっと眼を閉じた。
 彼女は胸に一杯
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