になっていた種々の思いが皆スーッと何処かへ飛び去ったような心地がした。そしてその後に神秘な興奮が残った。「あなた方は……と云って。」言葉がと切れた。そして傍の女を見ると――女は眼に一杯ためていた涙をほろりと膝の上に落した。
 彼女はそっと女の背に手をかけた。そして云った。
「あまり御心配なさらないがよろしゅうございます。」
「いいえ。」と女は頭を振った。「何にも心配なぞ致しませんけれど……。」そしてずっと彼女の手を握って云った。「私は信じています。」
 信ずるという意味が彼女の心にはっきりと映った。で女の手を両方の掌にはさんで、いたわるような心をこめて緊と握り返した。
「ああ私の胸に……。」と云って男はじっと燈火を見つめた。静かな夜のうちに燈火は赤い光りを震えつつ咽《むせ》んでいる。「私の胸に永遠の囁きとでも云ったようなものが響いて来ます。彼方の世界から来るかすかな戦慄《おののき》が、青空の深い懐と大洋の遠い水平線とが交っているような震えが……。そして私の胸は一杯に満ち充ちて裂けそうになります、祈りで。何を祈るのでもありません。また何に向って祈るのでも……もう自分の心に祈るのでもありません。その時私には、二つの心の生きた愛ばかりがはっきりと見えています。そして涙のうちに永遠の生と死とが一つになって、私というものを遠い遠い処へ運んでゆきます。一瞬間のうちに限りない歳月《としつき》を押しつめたようで、私はその重荷の下にふらふらと昏倒しそうになります。」
 彼はじっと仄暗い片隅を見つめたまま、胸を震わせて逼った呼吸を刻んでいる。
 その時彼女の掌の中で女の手がかすかに痙攣した。で囁くような調子で云った。
「屹度幸福があなた方を待っているでしょう。」
「いえいえ。もうこの上何かが来たら、私は屹度堪えきれないでしょう。それがたとえ幸福でありましても。」こう云って女は眼を閉じた。
 彼女は二人から遠くへ離れている自分の心を見出した。其処には淋しいような静かなる空間があった。でホッとしてこう云った。
「あなた方は何か……何かを忘れていらっしゃる。あんまり一つのものを見つめているとよくありません。」
「心より外のことを一切忘れるのは私の勝利です。」青年はこう答えた。その時彼の眼は淋しく光った。
 沈黙が続いた。囲炉裡の炭火が淋しくなっていた。家の中に夜が渦を巻いている、そして何かが
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