寄せられた。で何をともなく神を念じながら急いで家へ入った。
 二人は囲炉裡の側に腰を掛けていた。それに茶をくんで出し乍ら彼女はこう云った。「お腹《なか》がおすきでしょうねえ。」
「いいえ。」と女が答えた。「舟の中で沢山|種々《いろん》なものを食《いただ》きましたから。」
 彼女も其処へ腰を下した。二人を見ると、そのじっと一つ所に定めた眼付から、口元の筋肉の緊りから自分自分の心に思いを潜めていることを示していた。そして沈黙は彼女の心に興奮の刺戟を強くした。
「よくお帰りになりました。」と彼女は云った。
「え?」男が顔を上げて彼女を見た。その眼付にうち沈んだ影を湛えていたので彼女はこう云った。
「いえ、あまり遅いので一寸案じていた所でした。」然しその言葉の底に不満が残った。
「実は何時までも湖水の上に居たかったのですけれど……。」
「私は……私は、」と彼女はくり返した。「ほんとに気付かっていました。いつかの雨の降っていた日にも、それから……。」と云って一寸口を噤んだ。何だか嘘を云っているような気がした。でもこうつけ加えた。「それでもやっと安心致しました。」
「決して自殺なんか致しませんよ。」と男が云った。
 その言葉は彼女の思いに恐ろしい形を与えた。「いえいえ、」と首を振った。「そんなことを仰言るものではありません。」
「然し死ということを考えてみたことはありました。」
「もうもうそんなこと仰言ってはいけません。」強い意志が青年の顔に閃いたので、彼女の心に罪深い恐れが満ちた。で祈るような句調で、「神様はお許しになりません。自殺は恐ろしい罪悪です。」
「いいえ、」と青年は言葉を続けた。「私に死を禁じたのは神ではありませんでした。それは……。」と云って彼は首垂《うなだ》れている女をじっと見た。「それは私達の愛でした。神様の目に罪と見える私達の愛でした。更に祈祷《いのり》を捧げているうちに、何時のまにか死が逃げてしまったのです。私は死を否定して愛を――凡てを肯定する愛を受け容れました。そして……私は度々お祈りを致します。」
 彼女の心にその時深い処から法悦の光りがちらとさした。凡てが許されて救われるであろう。自然と心が大きい何物かに融けていった。
「私は、」と彼女は云った。「あなた方が湖水の上でお祈りなさるのを見受けました。あなた方は手を組んで祈っていられました。そして涙を流
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