故郷
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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「もう遅すぎる、クレオンよ、わしの魂はもうテエベを去った。そして、わしを過去に結びつけていたあらゆる絆は断たれた。わしはもう国王ではない。富も、光栄も、我身さえも棄て去った、名もない一人の旅人に過ぎないのだ。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](アンドレ・ジィド――「エディプ」)
 こういう言葉のうちには、何かしら悲壮な魅惑的なものがあって、人の心を打つ。それは単なるセンチメンタリズムから来るのではない。
 あらゆる仕事や人事関係を棄て去り、過去のあらゆる絆を断って、自分は名もない一人の旅人に過ぎないと宣言することは、而も真実に宣言することは、普通のセンチメンタリズムやヒロイズムを乗り越した境地からでなければ出来ない。そして、人生に対して真摯な態度を取れば取るほど、そうした境地に追いこまれることが多い。
 だが、私が茲に云いたいのは、他のことである。即ち、あらゆる絆を断って、自分は名もない一人の旅人に過ぎないと宣言することは、単に孤独の是認のみではなく、孤独ならざるものの獲得の希望が含まれていることである。人生に於ける一の故郷を棄てて旅立つことのうちには、やがて第二の故郷を獲得する希望が含まれている。エディプの生活はあれで終ったのではない。劇は最後の幕を下しても、幕外への――将来への拡がりを持つ。その拡がりのために、アンチゴオヌが必要であった。盲目のエディプの手を引いてくれる娘アンチゴオヌが必要であった。
 もしも、エディプにアンチゴオヌがいなかったならば……こう想像することは吾々には堪え難い。堪え得るのは何等かの意味での超人であろう。旅立つに当って、吾々は大抵アンチゴオヌを必要とする。而も観念や思想の中にではなく、如何にささやかであろうとも具体的な何かの中にである。
 具体的な何か……この中に人間性の秘密がある。このために、ラスコーリニコフは最後に無智な少女ソーニャの許に走った。そして「罪と罰」の後に来るべき「新らしき物語」のために、シベリアに於けるラスコーリニコフにはソーニャが必要であった――如何なる偉大な観念や思想よりも。
 さりながら、自分は名もない一人の旅人に過ぎな
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