いと真実に宣言することは、容易ではない。そうした旅立ちは、更生への途によりも没落への途に通ずることが多い。そして不思議なことには、没落への途を辿る者は、初めからそんな宣言なんかはしない。恐らくは出来ないのであろう。また、そういう人々に限って、アンチゴオヌやソーニャを持ち得ないことが多い。偶然の運命によることもあろうけれど、それよりも、そうした伴侶を発見するだけの誠実さを持ち得ないほど卑怯になっているからである。
 発見するだけの誠実さを持ち得ないほど卑怯に……この言葉を私は今考える。それと共に、人生に於ける魂の故郷でなく、普通の故郷のこと――吾々が生れた土地、或は幼年時代を過ごした土地のことを、想ってみるのである。
      *
 私は十二三歳まで、生れた田舎の土地で過ごした。その故郷の印象は、今でも頭にまざまざと残っている。
 春の晴れた日には、紫雲英の咲き揃った畑中に寝ころんで、凧をあげながら、彼方に連なる山の峰と、その高さをきそった。夏の夕方には、馬に乗せてもらって、河の堤を走った。夜になると、その河の浅瀬に、投網に連れていって貰った。鮎や鮠や鮒が、龕灯の光を受けてぴちぴちはねた。七夕の日には、朝早く、蓮の葉にたまった露を、硯の水に取りに行った。盂蘭盆の終りの日には、夜更けてから、仏壇の供物を蓮の葉に包んで舟を作り、蝋燭を立てて、小川に流しに行った。秋には、堰の落ちた堀川の淵で、釣やかいぼりをした。柿の木に登って、熟した柿をかじった。冬の雪の日には、高い竹馬に乗って、梢に残ってる蜜柑を取るのが楽しみだった。其他、一々挙げれば際限がない。
 然し、そういうことを、私は一体誰と一緒になしたのか。私を甘やかしてくれた父母や大人たち、私が嬉戯した友人たち、それらの人々の印象は、今は朧ろにぼやけている。その代りに、山の峰々、水の流れ、水草の中に群れてる魚、河原の小石、大木の幹、種々の果物、藪影の小さな赤い草の実まで、自然の事物は、実に鮮明な印象を残している。要するに、故郷というものは、私にとっては、自然の事物の中にだけ存在するのである。
 それ故、幼年時代を都会の中で――自然の事物に乏しい都会の中で――過ごした人々にとっては、果して如何なる故郷が存在するか、私には疑問である。この疑問を、都会で育った友人に質してみたところ、友人は淋しい顔で答えた、実際、僕たちには故郷は
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