を裂かれて、腹中の卵を取り出されたことは、彼等の記憶にない。自分が孵化して育った故郷の地だけが、彼等の記憶に――と云って悪ければ本能的感覚に――残っている。そして其処を指して、腹を裂くべく待構えてる人の手があることは知らずに、先を争って産卵にやってくる。
 こういう現象は、十和田湖其他姫鱒を養殖してる湖水に、恐らく共通のものだろうと思う。
 そしてそれは単に湖水だけではない。
 石狩の鮭と釧路の鮭とは、品質がまるで異っている。魚族が異っているからである。
 鮭の人工孵化を行い得られるのは、鮭が自分の生れ故郷を忘れないからである。大海に放たれても、産卵期には必ず、自分が幼魚の頃甞て放たれた場所へ、殆んど洩れなく戻ってくる。石狩川から放たれた鮭は、決して釧路川へ上ることなく、必ず石狩川へ上ってくる。釧路川から放たれた鮭も、また同様である。
 何故に然るか。それを私は説明し得ない。ただ、事実はそうだというまでである。
 ユダヤ民族研究者の云う処に依れば、彼等の理想が如何なるものであろうとも、なおよく云えば、彼等がたとえ世界的国家の建設を夢想しようとも、その中心地は必ずユダヤの故地だそうである
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