。何故? の問題ではない。そうでなければならないのである。
朝鮮民族研究者の云う所に依れば、彼等の夢想が何であろうとも、その夢想をのせる中心地は、必ず朝鮮の故地だそうである。何故を問う余裕はない。ただ、そうでなければならないからである。
生きた民族には、己の土地を要する。
顧みて、私一個のことを云う。
私は、自分の生れ故郷に対して、殆んど愛着の念を感じない。年老いて死に瀕しても、故郷に帰って死にたいとの念は、今から想像した所では、殆んど起りそうにもない。私が愛着する土地は、自分が生活してる現在の土地である。
日本の土地を離れて、他国に住むと仮定しても、もしその土地に私の生活が根を下しさえすれば、私はその土地に愛着して、日本に帰りたい心を起さないかも知れない。
私の安住の地は、自分の生活が根を下してる処に在る。生れ故郷にあるのではない。
然しながら、日本民族全体が、己の土地を失って、世界に四散することは、たとえ彼等が各地で生活しようとも、考えても堪らないことである。日本民族の安住の地は、日本の故地に在る。
ここでも一歩先へ考えを進めてみる。
洞爺湖の鱒の幼魚を、十和田湖
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